上海ウェネバーオンライン
中国(上海・北京)生活情報満載!!
Contents/Serialize
4月
■ 夜来香
夜来香、別名月下香とも呼ばれる、白い花。月光の下、庭いっぱいに芳しい香りを漂わせる。前世紀の40年代、上海で 「夜来香」という歌が流行した。


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3月
■ ボランティア
かつての日本人は、善行を尊んでおり、明治維新以降は同胞相憐れみ、博愛の精神を更に発揮させるようになった。昔から、しばしば地震や洪水などの天災に見舞われる日本だが、その度に様々なボランティア活動が行われ、災害被害を最小限に抑えてきた。上海の居留邦人も、祖国から遠くはなれて住んでいたが、ボランティアへの熱心さは、母国同様に失われることはなかった。


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2月
■ 雑賀家史記
2007年3月、大阪から来た雑賀健氏が、黄浦江岸にある旧日本領事館を再訪した。実はここは彼の生誕の地。落ち着いた色合いの赤レンガの建物は生れた時と同じとはいえ、歳月が流れ、昔日の面影は薄れている。だが、雑賀氏は、当時のことを鮮明に記憶しているという。


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1月
■ 新城新蔵
1931年4月1日にオープンした上海自然科学研究所(当時の上海、日本人社会で最高の科学研究機構)。その初代所長には、東京帝国大学名誉教授 であり、医学博士の横手千代之助が代行した。二代目所長の座に就いたのが、著名な天文学者、新城新蔵(1873−1938)である。


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12月
■ 音楽家 服部良一
大阪出身の日本近代音楽界を代表する彼であるが、夏瑞齢という中国語名を持っていることはあまり知られていないのではないだろうか。京都大学交響楽団のロシア人指揮者エマヌエル・メッテル氏に声楽と作曲を師事し、大阪大学ラジオ放送楽団に入団後、オーボエを担当した。


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11月
■ 日本の商売人の宣伝活動
居留邦人が上海で商売を始めたのは1868年で、1870年代に入った頃から盛んになっていった。当時の上海で は、広告技術の発展していた西洋文化が溶け込んでいたものの、中国人が行う宣伝活動の殆どは、大小の白紙に宣伝内容を書き、一目 につく場所に貼るだけで、新聞事業の発展、特に紙面の広告活用面において、他の国々よりも大きく遅れを取っていた。


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10月
■ 豊田佐吉
静岡県敷知郡吉津村(現在の浜名郡鷲津町)の大工の家に、豊田佐吉が産声を上げたのは1867年(慶応3年)のこと。1879年、吉津村の小学校を卒業し、1885年(明治18年)4月18日に、明治政府が『専売特許条例』を公布したことを、当時19歳だった佐吉は、隣村の小学校教師から教わった。「日本を豊かに、 そして人々に貢献するために、発明に一身を捧げよう」と決意した佐吉は、この日から数十年に渡り、現代紡織機械の発明に明けくれ、多大なる成果をもたらし、世界の「紡織機発明王」と称えられるまでになった。


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9月
■ 開導学校
明治時代の日本の小学校教育は、当初、4年制の尋常小学校と、同じく4年制の高等小学校に分けられており、6歳から14歳までの児童に教育を受けさせることが、両親もしくは後見人に義務付けられていた。
1888年(明治20年)に、上海で最初に出来た日本の小学校を、開導学校という。


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8月
■ 三代続く 上海との縁
今年7月、協和発酵医薬(蘇州)有限公司の郡高秀総経理が帰国された。郡氏は、母方の祖父にあたる隈元喜助、母親の郡紀久子(旧姓隈元)と続き、3代にわたって上海と深い絆に結ばれているため、感慨もひとしおだろう。


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7月
■ 『良友』画報に 登場した日本人
1934年6月15日、画報『良友』に『如此上海:上海租界内の国際的イメージ』というコラムが掲載された。上海を「中国の上海」(南市、閘北)と「外国の上海」(霞飛路、楊樹浦、南京路、虹口)に分けて紹介。外国的上海の15枚の写真も掲載され、その中の一枚は、虹口日本人街の特徴をとらえた、日本人女性が呉淞路を歩いているものだった。


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6月
■ 上田安三郎 初代三井上海支店長
1877年、三井物産株式会社の上海支店が広東路6号に誕生。その支店長には上田安三郎が就任した。三井物産は日系で最初に中国に進出した貿易商社であり、安三郎はその初代支店長ということで、対華貿易の先覚者と言われた。


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5月
■ 日華絵画聨合展覧会
1920年代は、中日間での近代美術交流が非常に盛んな時期で、それを代表するのが石野哲弘が創設した「中日美術協会」と同会が5回連続して開いた「中日(日華)聨合美術展覧会」である。


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4月
■ 日清汽船会社
上海開港間もない中国の、主に長江流域と内陸の経済都市を結ぶ国内航路は、英国系商社と中華系商社が独占していたが、日清戦争以降、沙市・重慶・蘇州・杭州の四カ所対外港が新たに開かれた。日本籍の船もこれら港を利用できるようになり、これまで布かれていた「長江以外の大陸の河川を外国籍の船が通航してはならない」という制限が撤廃される。


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3月
■ 月逎家の火災
虹口文路(現・塘沽路)にあった六三亭は、上海で最も有名な日本料理店だった。創業は1900年、店が繁盛し、1908年には江湾路に六三花園を開園。本格的な日本式庭園であったため、私営の庭園ながら上海の日本文化を代表する場所として、日本の公的機関や居留邦人の中の上流階級の人々が、大事な客を接待する場所として六三花園を利用した。


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2月
■ 女子高生の梓園参観記
上海南部の喬家路上に、梓園という庭付き一戸建てがある。近代の著名な書画家、王一亭の私邸である。1922年、王一亭がこの家に物理学者のアインシュタインを招き、宴会を催したことから、一気に梓園は有名になった。


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7月
■ 日本人クラブの文化交流活動
明治維新以降の日本人は西洋文化一辺倒だった。1883年(明治16年)11月、上流階級の日本人の社交場所として日比谷に鹿鳴館が完成。英国の建築家ジョシュア・カンダーがデザインしたレンガ造りの2階建てのこの洋館は、イタリアのルネッサンス様式をベースにデザインされた。鹿鳴館の名前は中国の『詩経・小雅』にある「鹿鳴」の中に「ゆうゆうたる鹿鳴 野の萍を食む我に嘉賓あり 瑟を鼓し笙を吹かん」という一節に由来する。



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12月
■ 日本領事館と居留民取締規則
日本領事館は、上海日本人社会の最高機関であり、居留邦人を監督・保護するための機関である。上海の居留邦人がまだ7人しか居なかった1870年、外務省の同意の下、「開店社」という名の民部省駐上海機関が、圓明園路の角、新天安堂の隣にある英国租界新大橋南川岸(現・南蘇州路3号)に設立された。初代駐在員には品川忠道通商大佑、斎藤麗正、神代延長文書権少佑の3人が任じられた。



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11月
■ 義務教育の普及
1920年代から、日本では小学校教育が普及し始め、上海日本居留民団も学校増設計画を実施し始めた。普通、学校設立場所は人口分布に基づいて決めるものだが、今回の計画では、紡織会社など大企業の寄付によって設立するため、居留民団はこうした会社の利益を配慮せざるを得ず、以下の四ヶ所への設立を決定した。
北部:虹口日本居留民団住宅区がある北四川路に設立。この小学校が上海で最初の日本人学校。



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10月
■ アーティスティックな 日本商店街
1930年代の上海で、フランス情緒あふれるストリートとして有名だった霞飛路現淮海路。西側は欧米人が住み、中央部はにぎやかな繁華街だった。そして霞飛路、1920年代には、どの店もロシア語と英語が併記された看板や広告を掲げる、ロシア人が開いたロシアン・ストリートとして知られていた。
だが中国の著名な作家・建築家の林徽因は、日本商店街があった呉淞路と霞飛路を比べれば、異国情緒という点では呉淞路の方が濃厚であり、客足も呉淞路の方が断然多いと述べている。
店舗が林立する呉淞路は、その当時の上海最大の日本人街で、土橋号や松本号(酒類食品店)、岩崎呉服店、玉屋呉服店、稲垣呉服店、日本堂書店、至誠堂書店、文房洋行、石橋洋服店、晩香堂薬房、日昇堂大薬房、天寿堂薬房、長沢写真館、池田屋、松川屋、浜田商店など、多くの老舗が軒を連ねていた。



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9月
■ 建築家 下田菊太郎
1860年代に外灘に建てられた英国総会には、大小のレストラン、ビリヤードホール、将棋室、図書館、バーなどがあり、英国人を中心に、上海に暮らす西洋人たちの最たる社交場として愛用されていた。1909年に改築着工し、1910年1月竣工。英国商社馬海洋行が設計した新しいクラブは、総面積9280平米、地上五階、地下一階建てで、英国古典主義を取り入れたデザイン。男性しかクラブの会員になれず、その資格も非常に厳格で、女性は年に一度開かれるパーティの時しかクラブの中に入れなかった。
改装後の内装は独特で、宴会場と客室はエオニア式の柱とバロック風の浮き彫りに彩られた壁が特徴的。そしてホールに設けられたバーにあるバーカウンターはイタリア製大理石を用いており、その長さは34メートルを誇り、更に高さ5メートルの腰板が英国風の内装であることをアピール。バーカウンターの下にある足置き用の銅製のポールの長さも20メートル以上あった。



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8月
■ 日清貿易研究所
日清貿易研究所は、東亜同文書院の前身である。両者の直属機関は異なるものの、そもそもの創始目的や人事には、一連の関連性があった。 
日清貿易研究所の創始者は荒尾精(1858〜1896)。本名は義行、後に東方斎と号した。尾張藩士の家に生まれ、廃藩置県によって東京に出て私立学校に入学し、中国語や英語を学ぶ。その後、外国語学校に進み、フランス語を専攻した。1878年、陸軍教導団砲兵科に入学。更に陸軍士官学校に入り、熊本歩兵連隊に赴任。1885年に同校を卒業後は、陸軍参謀本部支那部付けになった。翌年、参謀本部の命を受け、情報収集の為に中国に赴任し、上海にある楽善堂の岸田吟香訊ねた。岸田の知遇を受けた荒尾は、調査活動のカモフラー
ジュのために漢口に楽善堂支店を開き、宗方小太郎、井手三郎らと共に商業の傍ら、情報収集に奔走した。



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7月
■ 山田兄弟
1925年3月、中国革命の先駆者、孫文がその生涯を終えた時、彼を見守る人々の中に一人の日本人がいた。東亜同文書院の第一期卒業生、山田純三郎である。彼は兄山田良政と共に、孫文の忠実な友として中国で活躍した。



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6月
■ 西川秋次
第二次大戦が終戦を迎えたことにより、上海の居留邦人の殆どが送還されたが、ごく少数の技術者は中華民国国民政府に雇用され、そのまま上海に残った。「豊田事業圏中国方面の総帥」と讃えられた西川秋次もその一人である。彼は30数年にわたる上海での業務経験を、これからの中国に活かしたい、と自主的に上海残留を政府に求め、残留技術者の代表として、国民政府から重用された。



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5月
■ 玉蘭吟社
中国には、定期的に開かれる市の一つに「廟会」というものがある。仏教や道教などの記念日に寺院の中で行なわれる、日本で言う縁日のようなイベントで、四方八方から集った信徒達がお香を炊き、礼拝する。露天商の格好の商い場所でもあることから、廟会は廟市とも呼ばれ、民衆的な風習として各地で定着した。



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4月
■ 清明節は鬼の日
上海の居留邦人がまだ7人しかいなかった1870年7月 、日本民部省が外務省の許可を経て、英国租界の新大橋南川岸3号に、居留邦人の管理と対外交渉を担当する「開店社」という名の駐在機関を設立した。同年11月、各国の駐在領事との連絡のため、開店社内に上海出張所を開設。これが日本領事館の前身である。1873年に日本領事館が正式に設けられた後は、居留邦人に在留規則を始め、様々な法規を発布し、居留邦人に「法規を遵守し、日本国の体面を辱めないように」と要求。



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2月
■ 井手三郎
明治時代に中国で新聞関係の仕事に従事する日本人の大半は、熊本出身者だった。漢学の基本があり、中国で一旗挙げようとやってきた彼らは、東亜同文会のメンバーとして、長江沿岸や華南地方で活躍し、日系新聞界の「熊本系」を形成。井手三郎はこの熊本系を代表する1人である。


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1月
■ 虹口の日本埠頭
上海は明朝の弘汾年間(1485〜1505年)には、すでに海運の主要港として機能する町だった。呉淞口から黄浦江に入った輸送船は、直接貨物を上海県城まで運搬でき、埠頭は主に県城東南部の川岸1〜1.5キロメートルに渡って敷かれていた。 Contents / Old Shanghai



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12月
■ 日本人各路連合会
上海居留邦人社会には、居留民団を代表に、連絡を密にとりあい、日本人社会を盛り立てる様々な自治組織があった。異民族間で生じる矛盾が激化することで生まれた危機的状況の中で、彼らの利益と安全を守るべく発生した ものだが、彼らも中国侵略戦争を推し進める口実を提供し、戦時中には日本軍をサポートする団体になった。 Contents / Old Shanghai





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11月
■ 上海日本高等女学校
1899年2月8日、日本政府が「高等女学校令」を発布。女子を教育する高等学校で、就学期間は原則4年制、状況により3年制または5年制に設定してもよい、と規定した。
上海に最初にできた日本人小学校は居留民団立日本人尋常高等小学校である。1920年春の時点で同校の卒業生数は136人に達した。当時の日本の中学校は男女分校制度をとっており、上海の24人の女子学生も小学校卒業後は高等女学校への進学を希望した。日本居留民団は臨時会議を開き、上海に日本高等女学校(略称第一高女)設立を決定。同年4月、4年生2クラス58人の生徒を抱えて第一高女は開校した。新校舎建立は間に合わなかったので、日本小学校の教室を借り、授業内容は日本国内と同じものにした。
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9月
■ 六三花園
六三花園(六三園とも言う)は戦前の上海で最大の、個人所有による日本風庭園で、現在の西江湾路230号にあった。
かつて、上海租界にあった西洋式庭園はどこも中国人や日本人の立ち入りが禁止されており、居留邦人たちは、記念式典などは殆ど日本領事館内で行ったり、中国人用の公園を借りるなどし、いつも大型イベントの開催に難渋していた。1905年3月、日本軍が次々に中国東北部の奉天や鉄嶺を攻め落とし、日露戦争中の陸上戦がほぼ終了。この勝利を祝い、4月2日に上海居留邦人たちが慶賀会を開いたが、その会場は租界内にある、公共イベント開催である張園だった。
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8月
■ 北四川路…新日本人街
現在の四川北路にあたる北四川路は、南北に四川路橋から横浜橋を経て山陰路まで、西は元淞滬鉄路から、東は東江湾路までの、S字形の道。ここら一帯は開港前までは上海と宝山県を分ける、野中の名もない小川と田畑だったのだが、租界が虹口に設けられ、蘇州河の橋梁敷設および鉄道の開通で居住者の数が増え、北四川路が敷設された。1896年、公共租界が虹口の一角を買い取り、租界義勇隊の射撃場を建設。
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7月
■ 岡崎嘉平太
岡山県賀陽町大和山山頂に、大きな石碑が建っている。正面に大書きされた「望郷」という文字は、7年間暮らしていた上海を懐かしむ岡崎嘉平太(1897〜1989)が残したものだ。
1897年4月16日、岡崎嘉平太は岡山県吉備郡大和村(現・上房郡賀陽町)に生まれた。1922年、東京帝国大学法学部に卒業。中学進学時から、嘉平太は中国人学生との交流があり、彼らから日本国内の有力者の一部が中国を侮っている実情を知った。そして彼はいつしか中日友好とアジアの平和を守ることを人生のモットーにするようになった。
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6月
■ 上海日本中学校
1938年9月23日、日本居留民団が臨時会議を開き、上海在留の日本人小学生が上海で中学進学ができるようにと、日本中学校を設立することを決定した。
1939年4月1日、高塔路(現・山陰路)20号の日本実業青年学校の校舎を借り、上海居留民団立日本中学校(1942年10月5日、上海日本中学校と正式に改名)が設立された。水口民次郎は上海日本高等女学校校長が学校事務を担当し、有泉谷進、河野好男、福家弘、加藤武夫らが教師として就任。開校1週間前に入学試験が行われ、上海の各日本小学校の生徒131人が受験、101名が合格し、2クラスに編成。5年制(後に4年制に改編)で学生は男子のみ。
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5月
■ 文芸漫談会
内山書店が中国現代文化史に何かしら影響を与えたとすれば、その要因は以下の2つだと言えよう。1つ、扱っていた新書の種類が多く、文化情報の発信が速かったこと。当時の中国で出版された左翼系書籍のうち、日本語を原文とした330種類の書籍はその殆ど全てを内山書店が扱っていた。もう1つは、店主の内山完造が結成した「文芸漫談会」の存在。日本の作家や新聞記者、画家を紹介し、彼らと中国の新進文化人、芸術家との交流を深めさせていた。
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4月
■ 上海にある日本の建造物
近代都市を彩る硬い芸術、建造物。上海が西洋の列強諸国に侵食され、次々に租界が作られた時、各国はそれぞれの文化を喧伝すべく、独特のビルや家屋を各租界に建てた。日本の建造物は、同時代の西洋諸国や中国のそれに比べれば数や芸術的特色は少ないものの、上海という都市を形成する上で、大事な役目を果たしている。
租界が誕生して間もない頃(1850年頃)は、まだ上海居留邦人の数は少なく、日露戦争(1904年)後にようやくその数を増やした。20世紀に入り、上海の都市開発スピードは加速度を増す。居留邦人たちは民族と国力のシンボルだとばかりに、日本と西洋から一流の建築設計家を招聘し、自分たちの社会のための建造物を建て始めた。
 
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3月
■ 上海日本商工会議所
商工会議所は日本の各地方(大半は市単位)で組成される商工業者の組織だ。主に情報提供や仲介、斡旋、調停・仲裁、契約証明、担当地域の商工事業の統計などを業務にし、法人資格を有している。
戦前、上海にも日本人商工業者の連合組織、日本商工会議所があった。前身は上海日本人実業協会で、1911年(明治44年)11月に、日本郵船会社上海支店長伊東米治郎などが発起した。伊東は初代会長に就任したが、その1ヵ月後に倫敦郵船会社支店長を命ぜられたため、会長職を辞任、横浜正金銀行上海支店長の児玉謙次郎が、次期会長になった。日本人実業協会は中華民国建国、第一次世界大戦勃発など、世界的な事件があった時期、そして紡織業を軸とする日系資本が続々と上海に進出し、上海が日中貿易の拠点になった時期に活動していた。そんな中、中国の関税値下げに向けての尽力や、日本側業者に対し、通関手続きに関する知識などを普及するのに努めていた。1916年、協会は「在支商業会議所連合会」を発起し、対中通商対策などに一致団結して臨む体制を整えた。
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2月
■ 新公園
青々とした山も、清水流れる川もなく、果てなく広いだけだ」内山完造は上海をこう表現し、上海には自然がない、と嘆いた。「幸い、上海には外国人が造った、設備の整った公園がある」「公園のみが私達の無上の楽園だ」。上海居留邦人が集中していた虹口地区には、「新公園」と呼ばれる虹口公園があり、内山完造は虹口で暮らした数十年の間、ほぼ毎日新公園に出向いては、「朝に散歩、夕べに納涼」しており、多くの日本人たちもここで散歩をし、スポーツを楽しんでいた。かつての居留邦人の中で、幾度となく散歩をした新公園を上海の思い出の中に含んだ人の数は少なくない。
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1月
■ 三井洋行
三井洋行が1877年に上海の広東路6号に事務所を設立した。責任者は上田安三郎。これはもっとも早期に中国で貿易事業を開始した日本の大商社だった。
三井洋行とは即ち三井物産株式会社のことで、日本最大の財閥商社だ。1876年、対外貿易に従事する「先収会社」と三井の「国産方」が合併して設立した。初代社長は益田孝(1848年〜1938年)、資本金は始め5万円だった。三井洋行は設立してのち大蔵省の委託により対外貿易に従事し、米、石炭の輸出を始め、綿花、大豆の輸入と綿布、生糸の輸出を行った。1938年三井物産合名会社と名を改め、1909年更に三井物産株式会社と名を改め、資本金も2千万円に達した。
三井洋行は上海に事務所を設立した当初、西洋洋行が中国で通常に行っていた方法を取り入れ、商品の取り次ぎ販売権を中国の買弁に与えていた。中国買弁の雇用費用はとても高価で、三井洋行の中国貿易総額の1%を占めるほどだった。そのため1898年、三井洋行社長益田孝は日本の「中国通」を育てることを決定、中国買弁に変えて三井の商品取り次ぎの実権を与えることとした。
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2004年12月
■ 楊樹浦
上海東部の、大連路と提籃橋、黎平路に囲まれた一帯、楊樹浦。地名は楊樹浦港を縦貫していることから由来している。楊樹浦は中国近代工業文明の中心であり、戦前の上海の、日本紡織業の二大中心地のひとつだった。
上海開港間もなく、英・仏・米が次々に上海に租界をつくり、一八六三年六月には楊樹浦は米国租界の中に入った。同年九月、米・英租界が合併し、英美租界になる。一八七〇年、東西に抜ける楊樹浦路が敷設され、一八九九年に英美租界は東の黎平路まで拡張し、名も公共租界と改められた。楊樹浦は黄浦江に近く、地理的条件がいいため、国内外の投資家たちが争って資本投資をしたがる場所になり、「極東最大」と言われるほど大規模な中国初の発電所や、ガス工場、水道工場、紡織工場などが設立された。
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2004年11月
■ “江島丸”事件
日本が敗戦した翌日の一九四五年八月十六日、中国国民政府主席蒋介石は国内外に「旧悪をとがめず、友好的な人間関係を築くのはわが民族の素晴らしい徳性である」と講和を発表。この蒋介石の講和に基づき、中国政府は在中日本人を帰国させることにした。
上海で在中日本人移送を受け持ったのは国民党第三方面軍で、在中日本人たちも日僑自治会、民生商会などを設立した。上海在留日本人の指定居留区域への移動が九月十七日から始まり、九月末での上海在留日本人は九四四四一人(各地から集まった約三万人を含む)に上った。さらに陸続と各地から、実に一二万四千人が集結、帰国。計画では日本人輸送は一九四五年十一月十七日から行い、翌年四月三十日に終了する予定だったが、実際には第一便の明優丸は四五年十二月四日に日本人二千百八十五人を乗せて出航し、最終便は四六年六月まで遅延した。こうした帰国船の中で、一隻だけ日本籍の船が沈没している。これが「江島丸」事件である。
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2004年10月
 建築家 平野勇造
二〇世紀に入り、上海の都市建設は急ピッチで進み、日本の建築家たちが上海へ進出し始めた。西洋風の建物が目を引く上海だったが、日本の建築家の作品もその中である程度の位置を占めていた。日本の建築家の代表的な人物が、いち早く上海で会社を興したが、その中でも数多くの作品を残したのが東北生まれの建築家、平野勇造である。
平野勇造は、元治元年(一八六四年)一一月に青森県大畑新町に堺喜藤治の四男として生まれた。盛岡藩主の実母の典医、磯田幸太郎の下で語学を学び、一七歳で大畑小学の代理教師になった。その後、不治の病とされていた結核の病因と治療法を学ぶべく、平野は渡米を心に決め、父に函館に住む叔父から二百円の借金をしてもらい、東京浅草の待乳山中で勉学に励んだ。一八八三年、勇造は長崎屋の貨物船に密航し、ロスアンゼルスに渡る。レストランで皿洗いをしながら建築学を学び続け、その努力が実り、数年後にはカリフォルニア大学を卒業。当時の日本人留学生の中には、後の日本紡織業の創始者や《時事新聞》社の社長など、傑出した人物がいる。
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2004年9月
 頓宮寛と福民医院
上海在住の日本人居留民は一九二〇年代中期には二万人近くにのぼり、日本人経営の病院も大小問わず次々に開業していた。一九二六年の《上海年鑑》(上海日報出版社出版)の統計によると、婦人科・小児科・歯科・獣医などを含め、日本の病院は四十八カ所、その大半は呉淞路と北四川路一帯の、日本人居住区付近にあった。その中でも、頓宮寛が開いた福民医院が、最も大きな総合病院だった。
頓宮寛は一八八四年二月二十三日に香川県小豆郡小部村(現・土庄町)の医者の家に生まれた。祖父の頓宮斎、父の頓宮正平も医者として生計を立てており、寛も幼少の頃から医学を志していた。一九〇九年、寛は東京帝国大学医学部を卒業し、翌年、東京三井慈善病院の外科医局に就職。一二年に東京日本医学専科学校の教授になり、一八年に東京帝国大学医学部で医学博士の学位を取得した。同年、中国に渡り、湖北大治にある中国最初の鋼鉄連合企業「漢冶萍煤鉄廠鉱公司」の病院長に就任。
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2004年8月
■ 金子光晴と上海
金子光晴。一八九五年に愛知県に生まれ、一九一二年四月、早稲田大学高等予科文科に入学。翌年二月退学。同年四月に東京美術学校日本画科に入学、同年八月退学。九月に慶応大学文学部予科に入学したが、ほどなく病のために退学した。一九一九年、処女詩集「赤土の家」を出版。一九二三年に出版した詩集「こがね虫」で一躍有名になり、象徴派詩人の代表的存在に。一九二四年九月、森三千代と結婚した。
一九二六年三月、金子と森三千代は上海を初めて訪れ、約一ヶ月間滞在した。その間の住まいは、二十世紀初頭に建てられ、「吉慶有余」という意味を込めて名づけられた四川北路余慶坊(現・四川北路一九〇六弄)だった。弄内には三階建ての建物が十四棟と、二階建ての石庫門が百七十二棟あった。金子夫妻はベランダのある石庫門の二階の家に住み、後々まで「ベランダのざらざらで、ペンキがまだらな壁と青い空の対比はなんともロマンティックな風景だった」「余慶坊のベランダに白昼出ると、呉淞溯黄浦江上に浮かぶ粗布製の船帆と真っ赤な巨帆をびゅうびゅうと鳴らす気流をもろに受け、自分の全てを世界にさらけ出してくれる。」と、このベランダを気に入って思い出していた。金子の風貌は中国人に似ていたため、部屋の大家は彼を見て、広東人だと思っていたという。


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2004年7月
 修学旅行
一八九六年(明治二十九年)七月二十一日、二十九款からなる《中日通商行船条約》(日清通商航海条約)が締結され、日本は中国で製造業営業権と領事裁判権、最恵国条項など多くの特権を得た。この時から、日本人居留者たちが上海租界の参与者となるとともに、上海は日本国内の学生たちの修学旅行先として人気スポットになった。
同年秋、日本で初めての海外修学旅行として、公立長崎商業学校(現長崎大学)が上海に修学旅行にやって来た。もともと京都旅行を計画していたのだが、通商行船条約締結を喜ぶ生徒たちが、学校側に対し「上海で商業・貿易に関する実質的な知識を学びたい」と要求。十一月一日夕、五年生二十五人が二名の教師に伴われ、長崎港から「神戸丸」に乗船し、三日の午後、上海に降り立った。旅行中、日本郵船上海支店や三井物産上海支店、綿花取引所、東華紡織工場、銀行などを見学、また、長崎人が経営する東和洋行(旅館)からの招待も受けた。
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2004年6月
 楽善堂の月
通月牌は近代に生まれ、上海では旧正月を祝う「年画」として定着しているものだ。リバイバル風に伝統的な木版の年画や歴画は、工筆画を駆使した神話・伝説・歴史的故事などに商品広告を加え、カラフルなリトグラフで印刷したもので、商品宣伝効果が高い広告として、企業や消費者に広く親しまれてきた。月牌研究者が、「月牌」という単語は清の光緒二十二年(一八九六年)に出来たと指摘している。当時、四馬路(福州路)の鴻福来呂宋大票行が、彩票(宝くじ)のおまけにつけていた『滬景開彩図・中西月牌』が上海月牌の始まりだ、とその研究者は言うのだが、確実な説ではない。というのは、一八八〇年に岸田吟香が上海河南路(四馬路付近)に開いた楽善堂薬舗が既に「月牌」を発行していたからだ。ここから「月牌」という単語は常に上海最大手の新聞『申報』に登場した。
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2004年5月
 滬上唱酬
研究のために訪日した二〇〇二年の秋、幸運にも東京大学の明治文庫にある「井上三郎文庫」から大谷是空の『滬上唱酬』を見つけることができた。これは正式には出版されなかった小冊子で、大正九年(一九二〇年)に作家大谷是空が上海来訪時の、文人たちとの交流の詩が記載されている、大正時代の日中文化交流を知る上での貴重な資料だった。
大谷是空は本名を藤治郎と言い、岡山県津山に生まれた。津山尋常中学で英語教師として教鞭をとったこともあるが、文学の世界に魅了され、俳句を手始めに多くの漢詩や和歌、随筆、紀行文、小説などを作っている。また、津山で発行されていた『山陽新報』の俳壇欄の編集者でもあった。大谷は何度か中国を訪れており、『蘇浙小観』(遠山景観共著、一九〇三年刊)『経済的長江一帯』(一九一七年刊)などを記している。一九二〇年に三ヵ月に渡って上海に滞在した大谷は、高尚な日本人居留民たちが集う六三園や月廼家花園などで中国や日本の文化人たちと詩歌を作り、酒を酌み交わした。 『滬上唱酬』の序言で、大谷は「四年前に江南を旅行した時に『長江小吟』という詩を作った。今、再び上海を訪れ、九旬(九十日)も逗留したが、その間に呉昌碩、王一亭、宗方北平、井手素行、島田太堂などの諸先生方と交流を持ち、応酬した詩歌の数は数十首にもなった。
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