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第87回
夜来香 陳祖恩
李香蘭
夜来香、別名月下香とも呼ばれる、白い花。月光の下、庭いっぱいに芳しい香りを漂わせる。前世紀の40年代、上海で 「夜来香」という歌が流行した。 「那南風吹来清涼、那夜鶯啼悽愴、月下的花兒芬茫、也愛著夜鶯歌唱、更愛那花一般的夢」。軽快なルンバのリズムは異国情緒にあふれているが、後半は中国音楽の旋律を取り入れて叙情的に仕上げられている。
美しい花の名を曲名にしたこの歌は、映画『春江遺恨』の挿入歌で、中国の作曲家、黎錦光(作曲家名・金玉谷)が作曲した。湖南出身の黎錦光は「ニューミュージックの旗手」との呼び名高く、上海百代レコード社の音楽部主任も務めた。彼の手による『五月の風』『瘋狂世界』『採檳榔』『個不多情』『拷紅』などは上海で流行し、彼の歌を歌って一躍有名になった歌手も少なくない。黎錦光は最初、『夜来香』を周や姚莉などの中国人歌手に歌わせようと思っていたが、この曲の音域が広いためか、彼女たちは何度練習しても歌いこなせなかった。そんなある日、黎錦光の事務所を訪れた李香蘭 は、偶然ピアノの上に置いてあった『夜来香』の譜面を目にした。 李香蘭は、初見で軽々と歌い上げると、黎錦光に「とてもこの曲が気に入ったから是非歌わせて下さい」と懇願したという。 こうして『夜来香』は李香蘭の曲となり、中国全土で大流行する。その後、服部良一が編曲して日本で発表すると、今度は世界に広まり、英語、フランス語、タイ語などに訳され、60近いアレンジ曲が発表された。こうして『夜来香』は李香蘭の代表曲となったのである。
李香蘭は本名を山口淑子という。1920年に沈陽で生まれた後、父・山口文雄と共に撫順に引っ越した。1933年、沈陽で父の義兄弟、李際春の養女になり、李香蘭という中国名を名づけられる。更に1934年、天津で潘毓桂の養女になり、潘淑華と改名。その4年後、彼女は李香蘭の芸名で女優として芸能活動をスタートした。李香蘭は、『蜜月快車』『白蘭之歌』『迎春花』『万世流芳』など次々に映画に主演した。一方、歌手とし ての李香蘭は、翌年1939年『再見、上海』(作詞:時雨音羽、作曲:古賀政男)でデビュー。 その後『蘇州夜曲』や『何日君再来』『売糖歌』などでヒットを飛ばした。
1940年、映画の撮影のため、初めて上海にやってきた李香蘭は、その後の5年間のほとんどを上海で過ごした。 1945年5月、上海で最も豪華な大光明電影院で、『夜来香幻想曲』をメインにした李香蘭ソロコンサートを開催。コンサー トは、毎日昼・夜の2回公演で3日間にわたって開かれた。コンサートは3部構成で、第1部は日本と欧米の歌を、第2部は中国の歌を披露。1部、2部共 に作曲家、陳歌辛が指揮をとり、第3部の『夜来香幻想曲』は服部良一が指揮をした。
第1部では『荒城の月』『カ チューシャ』『祝酒歌』などの日本や欧米の曲を、第2部では当時中国で流行していた『四季歌』『木蘭従軍』『薔薇処処開』を披露。 第3部の『夜来香幻想曲』の幕が上がると、李香蘭は真っ白なチャイナドレスに着替え、魅惑的なソプラノで滑らかに歌い始める。1コーラス歌うごとにバンドはフルコーラスを奏で、最も高音の部分に入ったときに、『夜来香』のテーマ曲を演奏。観衆の盛り上がりも最高潮を迎えた。間奏中に李香蘭は特注の藍地に銀のラインと黄色い鶯をデザインしたチャイナドレスに着替え、白い夜来香の花束がたくさん入った籠を持って再び登場 し、民謡『売夜来香』を歌い始める。この時、李香蘭は歌いながら「請売枝夜来香!(夜来香の花はいりませんか?)」とセリフを入れた。これを聞いた観衆の数人は実際にステージまで行き、李香蘭の手にある花を求めた。李香蘭も歌いながら花をその観衆に贈り、さらに大観衆に向かい、幾度となく笑顔をふりまいた。
そして、バックバンドが『夜来香』を奏で始めると、李香蘭は赤いチャイナドレスに着替えた。コンサート最後の曲は『夜来香ブギウギ』。会場の熱気は最高潮になり、聴衆はみな立ち上がり、リズムに乗って踊り出し、李香蘭と夜来香が与える「夜上海」に陶酔していったのであった。
 
  陳祖恩  
 
復旦大学歴史系卒業。上海東華大学人文学院教授、上海社会科学院歴史研究所研究員。 日本の茨城大学、法政大学、神奈川大学でも学んだ。最近の著作に「尋訪東洋人〜近代上海の日本居留人」、「白竜山人王一亭伝」などがある。



「尋訪東洋人〜 近代上海の日本居留人」
上海社会科学院出版社
2007年1月出版 38元