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第79回
三代続く 上海との縁 陳祖恩
郡高秀氏と母。後ろの二人は中国人のお手伝いさん。
1952年12月4日上海美倫大楼にて撮影
今年7月、協和発酵医薬(蘇州)有限公司の郡高秀総経理が帰国された。郡氏は、母方の祖父にあたる隈元喜助、母親の郡紀久子(旧姓隈元)と続き、3代にわたって上海と深い絆に結ばれているため、感慨もひとしおだろう。
百数年前、隈元喜助が上海に足を踏みおろしてから50年、隈元家は上海で生活をしていた。その後、隈元家は一旦上海を離れるが、50年後、再び外孫に当たる郡高秀が上海にやってきた。隈元家はこの100年間、何かしら上海との関係をつなぎ続けてきたということになる。
今回、郡氏は、上海を離れることになったが、息子が再び上海で仕事に就き、隈元家4代が上海に 携われれば、という夢を抱いているという。
1903年、隈元喜助は鹿児島大学を卒業後、上海東亜同文書院に第3期商務科の学生として公費 で入学した。同校卒業後すぐ、三井洋行綿花部に就職し、上海支店の次長職を務めた。その後、三井洋行を辞職して独立し、綿花貿易会社を設立。
隈元紀久子は、1921年5月 に、漢口の日本租界成徳街64号で、 隈元家の次女として誕生した。姉 が1人、弟が3人いる。生れた時に、菊子と名づけられたが、後に紀久子と改名。5、6歳の時に一家で上海に引越し、上海北部日本小学、上海日本第一女子高等学校を卒業した。父、喜助の商売が上 手くいっている頃は家庭は非常に裕福で、紀久子はしばしばダンスホールに踊りに行ったりもしてい たが、綿花市場が暴落し、喜助の会社も倒産。生活は瞬く間に苦しくなった。母がこの世を去った後 は、まだ若い紀久子が家庭を預かるようになり、家事はもちろん、幼い弟たちの世話も精力的にこな すようになった。
そんな名家出身の紀久子が、小学校卒レベルの学歴しかもたない男性を結婚相手に選んだことに、 周囲の人々は驚愕する。だが、学歴こそないものの、彼は四国の名家の跡取り息子。若い頃は絵画に熱中したが、芽が出ず、故郷を出て働いたのち、軍隊に入隊した人物だ。1945年の日本敗戦の時には、九州からお金を満載した箱を携えて上海に戻り、紀久子を仰天させている。このお金は上海居留の日本人要人が、帰国する時のために用意したお金だという。ただし、この資金が要人の手に渡ったのか、他の用途で使われたのかは現在考証する術がなく不明である。
紀久子の夫は数カ国語を操り、 日本敗戦後は日本人協会の事務局として、居留邦人の帰国処理を 行なった。一般人の送還作業は 1945年12月から翌年5月までで基本的に終了。その後、上海の 居留邦人の数は激減し、残ったのは国民政府に雇用された者たちがほとんどだった。1949年、国 民政府が敗れたため、これら居留邦人も次々に帰国。上海に留まる 日本人の数は更に減った。紀久子の義兄(姉の夫)は歯科医で、中国新政府の招聘を受け、引き続き上海で診療業務をすることになり、紀久子の夫は日本人協会事務局員のためやはり上海に残った。
彼女たちの結婚式は、上海で行われた。紀久子は婚前虹口東興里B41号に住んでいたが、長男高秀が生れた時に、現在の沙市二路3号美倫大楼に、姉夫婦と共に引っ越した。このビルの3階は歯科診療所で、4階は姉夫婦の家、5階に紀久子夫妻の家があった。
1952年11月24日、上海北蘇州路190号のロシア医院(元・公済医院。1953年1月、上海第一人民医院に改名)で高秀が誕生。紀久子は乳母車を押して、幼い高秀に和平飯店にジャズを聴かせに行き、王宝和酒家に蟹を食べに行った。紀久子は、骨が軟らかいからとあまり息子を抱かず、もっぱら中国人のお手伝いさんが抱いていた。当時、郡家では2人のお手伝いさんと、雑用を担う中国人男性を雇っていた。紀久子の記憶では、上海での生活は良い思い出しかないという。もちろん、1945年前後は不安な日々もあ り、日本の戦犯が処刑されるのを目にしたり、ある人が上海大厦から飛び降り自殺を図ったと聞いたりすれば、暗い気持ちで過ごした。新中国が成立し生活が安定すると、彼女はよく「毛沢東に感謝すべきだわ。毛沢東だけが、人々の生活を本来の姿に戻すことができたんだもの」と口癖のように言っていたという。
1953年7月、1歳に満たない高秀を連れ、両親は送還船「白山丸」に乗り帰国の途についた。 国民政府の邦人返還政策では、各自の荷物は30キログラムまでと規定していたが、53年当時にはその 政策もなくなり、沢山の家具を持ち帰ることが可能になっていた。 郡家も例外ではなく、あらゆる物 を持ち帰った。
紀久子は、上海生活20数年で、上海語を聞き取り、上海料理もマスターした。1986年、息子が中国で会社の董事長、総経理の職に就くことになったと聞いた紀久子は、誰よりも喜んだ。かつて父が就いた職務と同じだったからである。惜しくも昨年、紀久子は天寿を全うしたが、上海に対する熱く深い思いは、今でも脈々と、その子孫に受け継がれていることだろう。(文中敬称略)
 
  陳祖恩  
  東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。