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第74回  
月逎家の火災 陳祖恩
月逎家花園

虹口文路(現・塘沽路)にあった六三亭は、上海で最も有名な日本料理店だった。創業は1900年、店が繁盛し、1908年には江湾路に六三花園を開園。本格的な日本式庭園であったため、私営の庭園ながら上海の日本文化を代表する場所として、日本の公的機関や居留邦人の中の上流階級の人々が、大事な客を接待する場所として六三花園を利用した。

この六三花園の成功にあやかろうと、同じスタイルを追随する店が現れた。乍浦路165号にある、ありふれた料理店だった月逎家は、1913年に狄思威路(現・陽路)100号に月逎家花園を開園。また、新月という日本料理店も、乍浦路174号から江湾路に移転し、新月花園を開園。こうして虹口地域に、日本食材料理店が経営する、日本と全く一緒の、純和風家屋と庭園が三ヶ所も出来、どこもお酌をし、舞を見せる芸者を大勢揃え、上海の居留邦人社会における最高級の社交場、宴会場としての地位を築いた。
月逎家花園は占有面積約1ヘクタール、石を積み上げ山を作り、水を引き入れ泉を設け、木橋を架け、梅や柳、桜など四季折々に花が楽しめる樹木を植樹し、美しい日本の庭園を、そのまま上海で再現した。本館は日本式の木造建築で、欄間や天井に美しい彫刻を施し、富士の間、梅の間、松の間、竹の間などと名づけた宴会専用の大広間は、壁に絹が貼られ、きらきらと輝きを放っていた。日本人の客が芸者を指名し、舞を見る時は殆どがこれらの大広間を利用し、他国の人々も、日本の文化を体験してみようと、月逎家花園で酒宴を開いては大いに羽を伸ばしていた。
毎年桜の季節になれば、川の水が流れるが如く居留邦人がおしかけ、庭園で花見酒をし、興に乗り、桜の鑑賞だけでは物足りない客が、大広間に移動し、芸子の舞を楽しんだ。
1923年8月6日夕刻、三菱会社上海支店長の秋c禧が月逎家花園で酒宴を催している。出席者は新たに総領事に就任した矢田七太郎、同前任の船津辰一郎及び日本人業者代表者数人と、中国側は江蘇の許特派交渉員、尹王庚廷滬海道、徐国棟淞滬警察庁長、沈宝昌上海県知事及び上海総商会の会長・副会長など。
月逎家花園は中国・日本の著名文化人が詩を吟じ、酒を酌み交わす場所としても使われており、呉昌硯や王一亭などの著名画家もここに墨蹟を残している。著名人の書画は月逎家花園自慢の宝物として扱われた。

宮本靖二経営のこの月逎家花園は、創業から16年後の1929年11月25日に突然の終焉を迎える。
同日深夜1時半頃、客がみな帰路に着き、店員が片付けに追われているときに、何やら焦げ臭い臭いが彼らの鼻腔を直撃。臭いの元をたどろうと従業員たちが周りを見回すと、部屋の外は真っ赤に燃え、あたかも真昼のよう。火はどうやら東隣から来たようで、瞬く間に月逎家花園に燃え移り、燃えやすい木造の家屋を飲み込んだ。その日は風が強い事もあり、火の勢いはまるで油を注いだようで、庭園全体が火の海と化した。本館の梅の間、竹の間、松の間などの大広間は、窓や欄間、瓦などは全て焼け落ち、柱だけになって火をくすぶらせ続け、本館の横にあった料理屋や神社も全焼した。
火災発生の知らせを受け、消防車がすぐに現場に到着。園内の従業員と共に大声を張り上げながら消火活動を行なったが、月逎家の建造物は全て木造。風に乗った火に瞬く間に全てを覆れてしまっており、全員の必死の消火作業も徒労に終わった。火災発生の深夜1時半から早朝4時20分までの約3時間で、月逎家花園は無に帰した。
発火場所は宝安路7号。ここは清水和吉が経営する梱包工場付設の消毒所で、中は端切れなどの可燃物が沢山詰まれており、火はここから燃え上がった。梱包工場の東側は楊家浜路102号の合衆機器工場、南が月逎家花園(当時の番地は狄思威路1147号)だった。火勢は東から西に向かい、北上。全焼した梱包工場の家屋は30軒余り、合衆機器工場は10数棟が全焼し、10部以上の機械も焼失したが、損害が一番ひどかったのは月逎家花園で、瓦も壁も崩れ落ち、一面の焦土と化した。大広間の富士の間、梅の間、竹の間、松の間などや営業中に集めた骨董品や書画などの文物も悉く焼失。梱包工場の損害が6、7万元だったのに対し、月逎家花園のそれは30万元に及ぶと推測された。合衆製造機器工場の損害は、貨客機器など10数部のみ、1万元前後だったという。

 
  陳祖恩  
  東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。