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第72回  
日本人クラブの文化交流活動 陳祖恩
日本人クラブの宴会

明治維新以降の日本人は西洋文化一辺倒だった。1883年(明治16年)11月、上流階級の日本人の社交場所として日比谷に鹿鳴館が完成。英国の建築家ジョシュア・カンダーがデザインしたレンガ造りの2階建てのこの洋館は、イタリアのルネッサンス様式をベースにデザインされた。鹿鳴館の名前は中国の『詩経・小雅』にある「鹿鳴」の中に「ゆうゆうたる鹿鳴 野の萍を食む我に嘉賓あり 瑟を鼓し笙を吹かん」という一節に由来する。
鹿鳴館では始終舞踏会やパーティが開かれ、日本に欧化ブームが訪れた。だが鹿鳴館完成の半年前にあたる1883年2月、上海ではすでに日本総領事が社交の場として日本人クラブを組成していた。クラブは会員制をとり、入会時に会費を徴収した。
クラブは財団法人になるまでは、資金繰りができず、常に場所を借りて、イベントを行っていたが、1913年(大正2年)2月、横浜正金銀行から融資を受け、クラブビルを着工。翌年3月に竣工した。1919年、新公園(現・魯迅公園)北面に八千坪の庭園を設け、居留邦人が茶会などを行なえるようにした。毎年新年になると、クラブは名刺交換会を開催。この会は年始のあいさつ回りの手間が省ける上、ビジネスマンにとって、格好の顔広めの場になった。
このほか、クラブでは居留民会がしばしば召集され、歓迎会、送別会や文化的イベントが開かれた。クラブは文監師路(現・塘沽路。居留邦人はよく「文路」と略して呼んでいた)にあり、クラブに出入りする人の数が多くなるにつれ、「文路」は居留邦人の中で、一番使用頻度の高い道路名になった。
ビルの完成で、居留邦人の社交場としてだけでなく、中日間の政治・経済・文化交流を行なう上で重要な施設としてクラブが利用された。中国の新聞『申報』に報じられただけでも、次のように色々な行事が行なわれている。
5月25日、滬海道尹王庚廷が日本人クラブを訪れ、上海に来ていた日本の参謀次長田中義一中将に面会。田中は上海滞在中、日本人クラブの招待所に宿泊。
6月5日、日清汽船会社が日本人クラブで上海の上流階級の人々を招待し、食後に演劇『借琴索隠』を鑑賞。藤娘の踊る姿に招待客は絶賛の声を揚げた。
9月22日、日本画家高橋哲夫が日本人クラブで個展を開き、数十点の作品を出展。
10月3日、日清汽船会社の土佐孝太郎総経理、中国側の王一亭が上海総商会の朱葆三会長・沈聯芳ら上海ビジネス界の名士約60名を日本人クラブに招待し、駐在歴11年に及んだ日清汽船会社木幡恭三経理の帰国送別会を開催。沈聯芳は席上で、中国輪船招商局と日清汽船会社は兄弟会社だ、とコメントした。
11月13日、春申社の佐原篤介社長、東方通信社の波多博社長が日本人クラブで招待会を開き、日本国民新聞の記者、徳富蘇峰や時事新報の石河千秋らを招待。中国人記者も参加した。翌日、上海の中国報道組合9社が一品香飯店で徳富蘇峰歓迎会を開き、申報の史量社長が歓迎の辞を述べた。
11月22日午後、上海駐在の日本新聞界が、日本人クラブで中国訪日記者団を慰労。日本側は上海日報・上海日日新聞・東方通信社・春申社・大阪毎日新聞・大阪朝日新聞などの責任者・記者が出席し、中国側は新聞報・申報・神州報・民国日報・時報・時事新報者の記者、汪伯奇・張竹平・余谷民・薛徳樹・呉葭生・包天笑・馮心支の7人が参加。夜には春申社の佐原篤介の招待で六三園に宴席が設けられ、和食に舌鼓を打ち、舞妓の踊りを堪能した。
日本人クラブ3階のホールでは、よく絵画展が開催された。1922年4月1日、中日共催の美術展覧会が開幕。中国画114点、西洋画64点、日本画122点が展示された。同年6月、中日美術展覧会が再び開かれ、宅野夫・山田春甫・木村政子らの作品を始め200点あまりが出展。1931年6月27日、魯迅夫妻と増田渉が日本人クラブに、日本画家太田貢と田阪干吉郎作品展覧会の見学に訪れ、太田の水彩画『湖浜図』と田阪の銅版『裸婦図』を購入している。1934年10月7日の午前中、魯迅夫妻は内山完造夫妻と日本画家堀越英之助の西洋画展覧会を見学に来ている。

 
  陳祖恩  
  東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。