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上海日本領事館スタッフ(1932年) |
日本領事館は、上海日本人社会の最高機関であり、居留邦人を監督・保護するための機関である。上海の居留邦人がまだ7人しか居なかった1870年、外務省の同意の下、「開店社」という名の民部省駐上海機関が、圓明園路の角、新天安堂の隣にある英国租界新大橋南川岸(現・南蘇州路3号)に設立された。初代駐在員には品川忠道通商大佑、斎藤麗正、神代延長文書権少佑の3人が任じられた。
品川忠道は長崎出身で、英語とオランダ語に精通しており、米国艦隊のペリー提督が横浜に来た時には彼の通訳を担当。1869年、会計官通商司兼造幣局翻訳官に就任。同年11月、民部省通称少佑として研究調査のため上海を訪れ、翌年、通商権大佑に昇任し、開店社の業務を任されることになった。開店社の設立間もなく、外務省は各国の駐上海領事たちと連絡を取り合い、中日国交締結準備のため、開店社内に「外務省上海出張所」を設け、居留邦人の監督及び対外交渉の全権を負わせた。この出張所が日本領事館の前身であり、品川が初代日本代理領事に就任している。
1871年9月、李鴻章と日本全権大臣の伊達宗城大蔵相が天津にて「日清修好条規」18か条及び「通商章程」33か条を締結。これが初めて中日が対等に結んだ条約である。1872年4月、外務省上海出張所は日本公館と改称。1873年6月、日本公館は上海日本領事館と正式に改称し、予備陸軍少将井田譲が総領事に就任した。
同年8月、日本領事館は虹口閔行路3号に移転。1891年には総領事館に昇格。1897年、日本総領事館内に領事館警察を設け、居留邦人をまずは管轄対象とし、治外法権を有する居留邦人と中国人との間で発生する各種民事・刑事トラブルの際は日本領事館が「領事裁判権」を行使し、判決を下していた。例えば、居留邦人が領事館令に違反した行為・犯罪を起こした場合、領事館警察が乗り出し、処理をする。1911年、日本総領事館は黄浦路106号に新館を建立し、移転した。
上海日本領事館設立当初は、日本政府の文明開化の方針に基づき、居留邦人に文明教育と管理を行い、居留邦人在留規則などの各種規則を何度か発布した。1873年5月14日、日本公館は「在留邦人心得暫定規則」を公布。同年10月には外務省が「清国在留日本人心得規則」を公布。国民の素質は、その国の文明度を測る物差しと考えた政府は、科学技術の発展よりも、国民の素質教育の方が国にとって大事と判断。また、国力が弱ければ、国民が海外に出たときにサポートできず、強い国力は、国民の努力によって実現可能になるとし、その実現に努めた。
日本領事館が公布した規則は、居留邦人が国の恥とならぬように、主に風俗や習慣について定められていた。1880年代初頭、日本の芸妓が東洋茶楼にて売春した事件の後、日本領事館は居留邦人の教育を更に徹底させ、非良俗的行為を無くそうと努めた。1883年9月25日、日本領事館が公布した「清国上海居留民取締規則」は、居留邦人の日常的行為に対し、次のように厳しく規定している。
・上海で飲食・旅館業に従事しているものは、領事館の規定を遵守し、批准を経なければならない。
・母国から上海に到着後48時間以内に領事館にて登記をすべきこと。延長する場合はその理由を詳細に説明しなければならない。
・引越し・旅行・帰国者は1日前までに申請書を提出すること。
・身分証明書不携帯による中国国内旅行を禁じる。
・上海にて開店するものは、3日前までに申請書を提出すること。
・だらしのない身なりで外出してはならない。
・婦女の短髪または男装を禁じる。
・男女を問わず、外出時は身分にあった服装をす-ること。
・例え室内でも、心中を吐露してはならない。
上記規定に違反した者は、1日から10日の拘留または5銭から1元95銭の罰金を課する。
もちろん、規定や処罰を設けただけで教育が徹底できるわけではなく、生活上・精神面においても正しく指導し、居留邦人の結束力を固める必要があった。関連団体や有識者たちの協力により、日本領事館は徐々に教育・衛生・生活などの改善計画を立て、居留邦人の数が少なかろうと、それらをおろそかにはしなかった。こうした海外同胞への配慮により、居留邦人たちは上海に居ながらにして、日本国内と同様の環境を得ることができるようになった。居留邦人が上海で国内と同レベルの文化事業をなしえたのは、祖国日本が近代発展の改革の成果を、あらゆる海外の同胞にも与えたことが、大きな要素を占めている。
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