上海ウェネバーオンライン
中国(上海・北京)生活情報満載 !!
Contents/Serialize
第70回  
義務教育の普及 陳祖恩
東部小学校
1920年代から、日本では小学校教育が普及し始め、上海日本居留民団も学校増設計画を実施し始めた。普通、学校設立場所は人口分布に基づいて決めるものだが、今回の計画では、紡織会社など大企業の寄付によって設立するため、居留民団はこうした会社の利益を配慮せざるを得ず、以下の四ヶ所への設立を決定した。
北部:虹口日本居留民団住宅区がある北四川路に設立。この小学校が上海で最初の日本人学校。 東部:1923年に滬東紡織工業区(楊樹浦)の平涼路に設立。
西部:1927年、滬西紡織工業区(小沙渡)の膠州路上に誕生。
中部:1929年、虹口の日本人商業エリアだった子路(現・武進路)に設立。
上記小学校以外に、日本高等女学校(1920年)、日本青年実業学校(1926年)、日本商業学校(1930年)なども建てられた。
1937年の第二次上海事変以降、居留邦人の数は増加の一途を辿り、学生の数もそれに比例した。1938年12月の時点で、日本人学生の数は7395人、1940年12月は9890人、1942年4月には13453人にまで増加。これに伴い、居留民団は日本中学校、第二北部日本小学校、第二中部日本小学校、日本女子商業学校などを次々に設立した。
1941年3月、日本政府はナチスドイツの教育制度を倣い、『国民学校令』を公布。同年4月から、同令に基づき、あらゆる日本小学校は国民学校と改称することになった。既に開校していた北部・東部・西部・中部・第二北部・第二中部の各小学校はそれぞれ第一・第二・第三・第四・第五・第六日本国民学校と改称。また、居留邦人の子供達が更に増加し続けたため、1941年に第七・第八・第九日本国民学校を建立した。
1942年4月、さらに第四日本国民学校南市分教場(別称、第十日本国民学校)、上海第二日本高等女学校を設立。これで上海には日本国民学校が10校、中学校が6校の合計16の学校ができ、上海に広範囲・多層に渡る教育ネットワークが完成。学生の数は14000人近くにのぼり、中等以上は進級試験を受けなければいけないことを除けば、自分の子供達への基礎教育の普及をという居留邦人たちの希望を叶えた。
同時期、公共租界内の中国人学校とその学生数は、日本人学校に比べて少なかった。『上海租界志』によると、1928年10月、工部局がようやく二ヶ所の中国人小学校(克能海路小学・荊州路小学)を建て、1940年までに新閘路小学・華徳路小学・匯山路小学・蓬路小学・新嘉玻路小学など計六校まで増設している。1931年の公共租界内の中国人小学生は1309人、1940年にようやく4343人に増えた。
上海の日本人学校には校舎と体操場、礼拝堂、体育館などの一流の設備が整っていたため、戦後も中国側に接収され、学校として使用された。再利用後は、多くの学校がこうした設備に加え、優秀な教師を雇って教育普及に努め、短期間で上海を、教育レベルの高い地域へと変貌させた。華東師範大学付属中学(元・第二中部日本小学)・虹口中学(元・中部日本小学)・洪湖中学(元・第九日本国民学校)・上海第二教育学院(元・第七日本国民学校)・上海外国語学院(元・第二日本女子高等学校)・上海幼児師範学校(元・第八日本国民学校)・静安区業余大学(元・西部日本小学)・上海電力学院(元・日本商業学校)などがそうである。
20数年前、邦画『キタキツネ物語』が中国でも流行し、大自然の雰囲気あふれる主題歌『グッド・モーニング・ワールド』があちこちに流れた。この映画の原案・企画を勤めた高橋健氏はかつて虹口中州路の第二中火日本小学(第六日本国民学校)に学んでいる。1999年12月、高橋氏は55年ぶりに懐かしい上海を再訪した。
彼の記憶では、学校は公共租界と閘北の北の境界線の北端にあり、当時の境界線上には鉄柱が建てられていたが、日本軍が上海を侵略した時にこの鉄柱を排除し、子供達の遊び場になったという。
高橋氏が当時学んでいた教室は三階の一番西にあった。得意な科目は作文で、12歳の時に書いた作文が賞を取ったそうだ。70歳の高橋氏は勝手知ったる、だがどこかあやふやな記憶を辿り、教室へと向かった。ちょうど授業中だった華師大一附中学の学生に対し、「文字で自分の感情や思想を表現することは、いつの時代もとても重要なことです」と語った。著名作家として活躍する彼ならではの経験談だろう。
 
  陳祖恩  
  東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。