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第68回  
建築家 下田菊太郎 陳祖恩
英国総会(中山東一路2号)の外観
1860年代に外灘に建てられた英国総会には、大小のレストラン、ビリヤードホール、将棋室、図書館、バーなどがあり、英国人を中心に、上海に暮らす西洋人たちの最たる社交場として愛用されていた。1909年に改築着工し、1910年1月竣工。英国商社馬海洋行が設計した新しいクラブは、総面積9280平米、地上五階、地下一階建てで、英国古典主義を取り入れたデザイン。男性しかクラブの会員になれず、その資格も非常に厳格で、女性は年に一度開かれるパーティの時しかクラブの中に入れなかった。
改装後の内装は独特で、宴会場と客室はエオニア式の柱とバロック風の浮き彫りに彩られた壁が特徴的。そしてホールに設けられたバーにあるバーカウンターはイタリア製大理石を用いており、その長さは34メートルを誇り、更に高さ5メートルの腰板が英国風の内装であることをアピール。バーカウンターの下にある足置き用の銅製のポールの長さも20メートル以上あった。
この当時の極東で一番長く、豪華だったバーカウンターは英国総会の象徴の一つとして、多くの会員に愛された。1930年代に入ると、上海で販売される外国語のガイドブックの殆どにこのバーが紹介され、このバーで一杯飲むためだけに上海にやって来る人までいた。英国のハンゴール卿が「長いバーカウンターを振り返ると黄浦江が流れている。このバーは銀行と洋行のオーナーたちがほぼ貸し切っていて、彼らの招きがない限り他の人たちはここを使えない」と当時を振り返り、記している。日本人の会員の一人、聨合通信社上海支局の松本重治支局長も、「昼食前にこのカウンターに行くと探していた人に会える。これが英国式クラブのメリットの一つだ」と語っている。
だがこの英国総会の内装デザインは、そして有名なバーカウンターをデザインした人間は英国人ではなく、下田菊太郎(1866〜1931)という日本人だったことはあまり知られていない。
下田菊太郎は、佐竹藩士下田順忠の子として秋田県角舘町に生まれた。東京三田英語学校で学んだ後、1883年に工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)に入学したが、教授と意見が合わず、中途退学して米国に渡り、ロス・アンジェルスの建築事務所に就職した。米国滞在中は寸暇を惜しんで勉強に励み、米国建築家協会の資格を日本人で初めて取得。資格取得後、シカゴで建築事務所を開いた。
1898年、米国が不景気に陥り、菊太郎は帰国。米国で学んだ鉄筋コンクリート構造の技術を日本でも取り入れようとし始めた。年号が大正に変わると、新築の建造物は西洋風一辺倒になったが、菊太郎は欧米風と和風のそれぞれの長所を取り入れたデザインを提唱。構造は西洋風だが日本風の屋根を設けるなどした「帝冠式」のスタイルだ。だが当時の建築業界の主流派はこれを受け入れなかったため、菊太郎は冷遇を受け続ける。大正9年(1920年)、国会議事堂のデザイン案が公募され、菊太郎はこの帝冠式デザインを提出。一度は採用されたものの、実現には至らず、帝冠式デザインは1931年に彼が亡くなってからようやく広く用いられるようになった。
1904年に建てられた元香港上海銀行長崎支店記念館は、唯一現存する菊太郎が設計した日本の建造物である。これは長崎最大の西洋風建造物でもある。
1909年、菊太郎が上海にやってきて、英国商社の馬海洋行に就職した。馬海洋行は、当時の上海でも著名な外資建築設計会社で、蘭煙輪船公司や馬庁総会、上海酒廠、新怡和洋行などを設計・施工したのも同社である。馬海洋行はこの日本から来た「建築界の奇才」の才能を認めて雇い、黄浦江岸に建つ英国総会のバーのデザインを任せたのである。
英国総会は創立当初は、あくまで「西洋人のためのハイクラスな社交場、遊び場」として、中国人と日本人の受け入れを拒否していた。日本は日清戦争で、上海での治外法権と租界を勝ち取ったが、それでも西洋社会には受け入れられず、英国総会に入れたのは、在華紡織同業会の船津辰一郎専務理事と、松本重治聨合通信上海支局長などごく数人だった。上海の西洋社会での船津の評価は非常に高く、博識で優雅な立ち居振る舞いと礼節ある態度、正確な判断力や機知に富んだ発言、謙虚な姿勢などがいつも賞賛されていた。こうした船津のような日本人のみが、同胞がデザインしたバーカウンターで黄浦江を鑑賞しながら酒を飲むことができていた。
 
  陳祖恩  
  東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。