Walker
中国最新情報満載!!
Contents/Serialize
第66回  
山田兄弟 陳祖恩
孫中山と山田純三郎
1925年3月、中国革命の先駆者、孫文がその生涯を終えた時、彼を見守る人々の中に一人の日本人がいた。東亜同文書院の第一期卒業生、山田純三郎である。彼は兄山田良政と共に、孫文の忠実な友として中国で活躍した。
山田良政(1867〜1900)、幼名は良吉、字は子漁。津軽藩士山田浩蔵の長男として、青森県弘前に生まれた。青森県立師範学校に進学の後、上京し、東京生産講習所を卒業。卒業後は北海道の昆布会社に就職し、1890年に上海勤務になった。沈文藻に中国語を学びつつ、上海日本青年会の活動にも積極的に参加。孫文が日本に亡命した1899年、良政もちょうど帰国しており、孫文と対面する。良政は孫文の革命理論にいたく感動し、中国革命成功への協力を惜しまないと誓った。1900年春、良政は南京同文書院の教授兼事務担当責任者の任に就く。
同年夏、上海虹口文監師路(現・塘沽路)にある朝日館と孫文が、広東恵州での武装蜂起を計る。この恵州起義には同文書院の学生にも参加を呼びかけたが、彼らは参加を固辞した。10月、孫文の密命を受けた良政は敗戦色濃い恵州へ向かい、革命軍のしんがりをつとめたが、戦死。この訃報を受取った孫文は非常に心を痛め、「この志士は中国革命の犠牲者となった初の外国人なり」と悲痛の面持ちで語っている。
兄が革命の犠牲になった頃、弟の山田純三郎(1876〜1960)は南京同文書院に学んでいた。北方義和団事件の影響で、同院は南京から第一期の学生14人と共に上海南市高昌廟に移転。1901年には東亜同文書院と改名した。純三郎は卒業後も学校にとどまり、事務員兼助教授として勤務。兄の遺志を継ぎ、孫文と共に中国国民革命の為に尽力することを決心した純三郎は、1906年に孫文の秘書になり、助手としても孫文を支えた。1911年12月21日、華僑たちの支持を得るため、その資金を募るための欧州遊説旅行から帰国した孫文を、山田純三郎や宮崎滔天らが香港まで出向き、デンバー号の船上で彼を迎えた。この苦難を強いられた旅に疲れた孫文は、香港まで迎えに出てきてくれた純三郎らの姿を見て深く感動し、「同舟同済」(同じ舟に乗っている人々は共に助け合う)という題字を贈った。
純三郎と共に上海に戻る途中、孫文は彼に対し「三井洋行から1、2千万円ばかり借りてくれないか」と依頼。純三郎はすぐさま三井洋行に連絡を取り、上海到着して間もなく、孫文と三井洋行上海支店の長藤瀬政次郎支店長とを引き合わせた。その後、三井洋行は上海の有名日本料理店「六三亭」にて孫文をもてなしている。
1912年1月1日、中華民国が南京に成立し、孫文は中華民国臨時大統領就任を宣言。純三郎も特別招待客として就任式典に参列した。1914年、東北及び山東半島に革命力を集結させるべく、大連に人材を投入。純三郎も「満州鉄道嘱託」の身分で東北へ赴き、革命に協力した。1915年9月、純三郎は孫文の求めに応じて『民国日報』を創刊し、社長に就任。その後も純三郎は日本と孫文との主要連絡係になり、上海フランス租界内にある薩坡賽路(現・淡水路)14号の彼の私宅を革命党員の活動拠点のひとつにした。
陳其美、胡漢民ら中華革命党のメンバーは山田邸によく集って袁世凱打倒について相談していたが、1916年5月18日、袁世凱の送り込んだスパイが陳其美を暗殺、山田邸は事件の舞台となった。この襲撃の際、特務が放った銃弾が山田家女中の耳をかすり、純三郎の二歳の長女・民子がこれに驚き卒倒したために脳を損傷し、一生障害を負う身になっている。
孫文が亡くなっても、山田純三郎と中国との関わりが途絶えることはなく、純三郎はその後数十年に渡り、上海に住み続けた。『民国日報』社長を務めたほか、『広東日報』(1925年5月)や上海の『江南晩報』社長、日本語版『上海毎日新聞』(1927年7月)や上海大東学院院長(1944年)などを歴任。1931年6月には国民政府外交顧問の職に就いている。1945年の日本敗戦により、上海の居留邦人たちはみな虹口地区に集められたが、純三郎は「日本国籍山田純三郎氏は過去に国父と共に革命に奔走し、その学・行動共に汚れなく、自由な通行を許可し、規定の制限を受けることがないことをここに証明する」と記された中国の特別優遇通行証を発行された。居留邦人が本国に送還された後も純三郎は国民政府の求めに応じて中国にとどまり、残留邦人の互助会会長を勤めた。1948年12月、帰国。
 
  陳祖恩  
  東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。