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第60回 上海にいた日本人 |
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日本人各路連合会 |
陳祖恩 |
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| 上海日本人各路連合会常務委員会会員 |
上海居留邦人社会には、居留民団を代表に、連絡を密にとりあい、日本人社会を盛り立てる様々な自治組織があった。異民族間で生じる矛盾が激化することで生まれた危機的状況の中で、彼らの利益と安全を守るべく発生した ものだが、彼らも中国侵略戦争を推し進める口実を提供し、戦時中には日本軍をサポートする団体になった。
町内会は上海居留邦人が作った一番小さな団体で、主に一般
階級の日本人のための組織だ。
1915年7月、上海で抗日運動の気運が高まり、居留邦人と中国人巡邏との争いの結果、日本人2人が死亡するという事件が起こった。この事件の後、居留邦人たちは丁興里会、文路同志会、新友会、親和会、呉漢親隣会、近親会など六つの町内会を組成。これら町内会は自警団を結成し、日本総領事館と居留民団の指導の下、日本人の避難や保護、就学児童の通学時の護衛や交通ルールの指導などを行った。
1917年、更に六つの町内会が誕生。各町内会は互いに連絡を密に取り合うために、上海日本人町内会連合会を結成した。1925年、「5・30」事件(※)が発生し、町内会連合会は自警団を組成して警戒に当たる。当時の日本総領事矢田七太郎が「上海居留邦人は居住区内の町内会に入会もしくは新規組成し、町内会は町内会連合会に入会するように」と呼びかけ、この発言で町内会が次々に誕生し、40にまで増えた。
町内会連合会は組織系統を整えるため、「上海日本人各路連合会」と改称。軍隊、東亜同文書院、紡織工場勤務者以外の上海邦人は全て各路連合会に加入した。日本人各路連合会の主な内容を、1937年6月の統計から抜粋する。
本部は日本人倶楽部の四階に設置。林雄吉を名誉会長に、町内会総数は51、総加入者は12900人。各路連合会は事務員以外には給与や報酬は一切なく、会員は年会費1元を支払い、特に経費が必要な時は会員が寄付を募ってまかなっていた。
各路連合会は地元住民の利益を代表する団体として、様々な活躍をする。1921年、大企業の利益を代表する居留民団と、東部小学校設置場所について長期に渡ってもめることがあった。だが連合会は居留民団に計画を変更させ、地元住民の要求を通させることに成功。また、1929年には居留邦人の子弟増加に伴い膨大な教育経費が必要となったときには、工部局と幾度となく交渉を繰り返し、1931年から工部局の教育補助金が出るようにまとめた。1937年度の教育補助金は15万元近くにものぼる。
自警団も上海居留邦人が中国民族運動が高まる中で結成された団体だ。内務省の命に基づき組成された、日本国内の警防団や防護団とは異なり、上海自警団は防衛とテロ活動の取締りを活動目的とした臨時的な組織だった。町内会を基本にして地域毎の班に分け、各班の事務所や理事会を統括するために本部を設置。本部には団長・副団長がおり、経費は各町内会が負担した。その後、1915年、「自分を守り、軍を助ける」が自警団のモットーになり、1925年の5・30運動のときには「邦人利益を保護し、生命財産を守る」がモットーになった。同組織は居留邦人のための避難訓練や、非常時の団体行動訓練なども行った。
郷軍人会上海支部も上海居留邦人の自治団体で、1916年、桜友会として結成され、翌年、大島少将が会長に就任し、会員281人を抱えた。1927年、北伐軍が上海に侵攻した際、当然起こるであろう混乱に備えて各路連合会は居留民団の提案に基づいて、居留邦人の中から復員軍人を召集し、有事の際に日本軍の軍事行動を支援し、居留邦人の避難・保護を結成の目的に郷軍人会を設立。また、上海東部・西部・中部・北部に分会を設け、各分会に会長・副会長・理事・監事を置いて連絡統括を任せていた。
1941年5月、指揮系統を上海居留民団に一本化すべく、上海日本人各路連合会は解散した。
※5・30事件・・・「在華紡績業」の争議弾圧や労働者殺害に抗議した学生のデモに対して租界警察が発砲、20名近い死傷者を出した事件。 |
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陳祖恩 |
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東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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