 |
 |
第59回 上海にいた日本人 |
 |
上海日本高等女学校 |
陳祖恩 |
 |
 |
 |
 |
 |
| 虹口東体育会路上の第二高女 |
1899年2月8日、日本政府が「高等女学校令」を発布。女子を教育する高等学校で、就学期間は原則4年制、状況により3年制または5年制に設定してもよい、と規定した。
上海に最初にできた日本人小学校は居留民団立日本人尋常高等小学校である。1920年春の時点で同校の卒業生数は136人に達した。当時の日本の中学校は男女分校制度をとっており、上海の24人の女子学生も小学校卒業後は高等女学校への進学を希望した。日本居留民団は臨時会議を開き、上海に日本高等女学校(略称第一高女)設立を決定。同年4月、4年生2クラス58人の生徒を抱えて第一高女は開校した。新校舎建立は間に合わなかったので、日本小学校の教室を借り、授業内容は日本国内と同じものにした。
1920年代から、日本人の居住区域は新公園の方へ移動していたため、第一高女の新校舎は北四川路界隈ではなく西華徳路(現長治路)上が選ばれた。1923年7月、居留民団が臨時会議の結果、施高塔路(現山陰路)の元三菱商事の社宅だった土地と建物を買い取り、第一高女の校舎として改築することが決まった。同年8月、9万両の民団債券(額面百両、利率7分)を発行し、改築に着工。同年11月3日、占有面積約2千坪、5棟の校舎が誕生、日本外務・文部大臣から「在外指定学校」の認定を受ける。1924年3月、第一高女は移転式兼卒業式を実施。矢田等日本総領事も式典に参列した。1926年11月、同校は更に12部屋の教室を増築。翌年6月、外務省から初めて補助金13500円を受けた。
上海第一高女は在外指定学校の認定を受けたとは言え、学生が帰国して転校、もしくは進学する際、色々なトラブルが起こっており、日本居留民団は日本政府に請願を提出し、この問題解決を依頼。1926年1月7日、日本政府は文部省令を発布し、外務・文部大臣指定の在外学校卒業生はその他の学校に進学する資格を有す、と規定した。
1923年9月1日、関東大地震が発生。上海の日本居留民団は「震災義捐金募集委員会」を組成し、第一高女の学生も積極的に義捐金活動に参加した。制服姿で上海の街頭に立ち、被災者のために衣服を寄付してくれと呼びかけたところ、半月で5500枚もの衣服が寄付され、これら衣服は山城丸で日本国内に運ばれた。
上海在住の日本人女子学生の数が徐々に増加したのに伴い、第一高女も新校舎建立に着手した。新校舎は虹口欧陽路221号。建築家岡野重久が設計し、1936年1月5日に竣工した。校内の敷地面積は6526坪、うち運動場は2761坪もあり、鉄筋コンクリート四階建ての校舎は採光のよい、明るい教室が並び、校内には様々な木々に囲まれた広々とした芝生や25メートルプールに屋根付運動場、弓道場などの体育設備も整えられた。この時期の学生数は482人、1941年には1164人にまで増加している。
第一高女の学生は最高学年になると二週間の日本への修学旅行が待っている。長崎まで船で行った後は電車に乗って九州と本州の主な都市を観光しながら東京へ向かい、また東京から長崎へ戻るという行程だ。旅費は学生自身が入学時から少しずつ積み立て、もし足りない場合は両親が負担した。こうした修学旅行は故郷を離れて暮らす学生にとって母国を知る絶好のチャンス。だが1941年に第二次大戦が始まり、日本への修学旅行は中止せざるをえなくなり、旅行先は中国国内に変更された。
1941年10月、第二日本高等女学校(略称第二高女)が虹口東体育会路上に建てられ、翌年4月4日に中泉正雄校長を筆頭に教職員は23人、一年生187人で開校した。同校は第一高女と同様、教育環境がとても整っており、広々とした緑地や体育館などが、学生たちに喜ばれた。新公園は第二高女学生の通学路で、クローバーを摘んで腕輪を編んだり指輪にして楽しむ女学生たちの姿が公園内のあちこちに見られた。 |
 |
 |
 |
| |
陳祖恩 |
|
| |
東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
|
 |
|
|
 |
|
 |
|
 |
|