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第57回 上海にいた日本人 |
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六三花園 |
陳祖恩 |
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| 六三花園内にある料亭「六三亭」の支店 |
六三花園(六三園とも言う)は戦前の上海で最大の、個人所有による日本風庭園で、現在の西江湾路230号にあった。
かつて、上海租界にあった西洋式庭園はどこも中国人や日本人の立ち入りが禁止されており、居留邦人たちは、記念式典などは殆ど日本領事館内で行ったり、中国人用の公園を借りるなどし、いつも大型イベントの開催に難渋していた。1905年3月、日本軍が次々に中国東北部の奉天や鉄嶺を攻め落とし、日露戦争中の陸上戦がほぼ終了。この勝利を祝い、4月2日に上海居留邦人たちが慶賀会を開いたが、その会場は租界内にある、公共イベント開催である張園だった。
長崎出身の白石六三郎という人物がいた。六三花園の創始者で、旧姓を武藤、1898年に上海文路(塘沽路)に「六三庵」という日本風麺料理店を開いた。1900年、高級料亭の「六三亭」を開店。同店は清潔で感じのいい内装と、薄味の日本料理が多くの人に喜ばれ、上海でも有名な高級日本料理店へと成長。経営拡張のために、そして同胞たちが日本風の遊びや憩い、集会が出来る場所を作ろうと1908年、六三郎は江湾の一角に6000坪の土地を買い、日本庭園を建設。六三園は、日本庭園の特徴である簡素で上品な趣がある美しい造り。園内に設けた六三亭の支店は、木造二階建ての日本家屋で、約40アールの草地を設け、春秋の花見や様々な集いが開けるようにした。更に茶屋や東屋、ぶどう園、はす池、ガス灯の小路を設けたり、松や梅、竹など日本人が愛する植物が数多く植えられた。六三花園は居留邦人に無料で開放され、多くの人々がここで日本を懐かしみ、桜の季節には花見を楽しんでいた。当時日本で発行されていた上海ガイドブックに「六三花園の夜桜は上海名物の一つ」と紹介されている。
六三花園が完成し、日本庭園と日本料理が楽しめる、つまり上海で日本文化を存分に満喫できる場所として、上流階級の居留邦人が貴賓の接待に利用するようになった。1912年4月6日、孫文が上海にやってきた際、宮崎滔天らが六三亭で大規模な歓迎会を開催。1922年7月に孫文が南方軍閥の謀反人として広州を逃れ、上海にたどり着いた時も日本駐上海総領事の船津辰一郎が六三花園で長旅の疲れを癒している。中国の文豪、魯迅も郁達夫らと六三花園で花見を楽しんだり、ほかの日本人の友人からの招待に応じて六三花園を利用している。1935年10月21日、魯迅が朝日新聞上海支社長の招待で六三花園を訪れ、同席者の慶応大学の野口米次郎教授と内山書店の内山完造と共に、園内で記念撮影した写真が現存している。パリ和平会議に全権代表として出席した元老、西園寺公望も1919年に上海に立ち寄った際、六三花園を訪れ、「興亦不浅」と大書した書を六三郎に送った。六三郎は額を特注し、この書を宝物として大ホールに飾っていた。
六三花園の簡素な美しさ、四季折々の花々、様々な鳥のさえずりは日本や中国の文人墨客に好まれ、園内で日中文化交流が行われるようになった。中国の近現代書画篆刻の大家、呉昌碩もしばしば六三花園にやってきた一人だ。白石六三郎と呉昌碩の交流は深く、しばしば六三郎の招きを受けて六三花園での宴席に出向き、彼の作品は上海にやってきた日本の書家に紹介されていた。1914年、上海書画協会が設立され、呉昌碩が会長に就任。六三郎は就任を祝い、呉昌碩のために六三花園で彼の個展を開催。この個展は中国書画が一般公開された最初の展示会である。その後、不定期に六三花園を会場に日本人書家の作品展示会が開かれたり、上海書画の大家や著名収集家が協力して特色ある展覧会などが行われるようになり、六三花園は書画の展示・鑑賞・交流の中心地としての顔を持つようにもなった。1919年3月、呉執之や岡野など日中の書画収集家が発起人になり、六三花園で上海にある石碑や鼎鐘、書画、文物の収蔵展が開かれている。また、1927年に呉昌碩が亡くなった際には、上海の日本人書家たちや呉昌碩の息子、呉東邁が六三花園で彼の遺墨展を開いた。 |
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陳祖恩 |
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東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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