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第56回 上海にいた日本人 |
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北四川路…新日本人街 |
陳祖恩 |
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| 虹口日本人住宅区の風景 |
現在の四川北路にあたる北四川路は、南北に四川路橋から横浜橋を経て山陰路まで、西は元淞滬鉄路から、東は東江湾路までの、S字形の道。ここら一帯は開港前までは上海と宝山県を分ける、野中の名もない小川と田畑だったのだが、租界が虹口に設けられ、蘇州河の橋梁敷設および鉄道の開通で居住者の数が増え、北四川路が敷設された。1896年、公共租界が虹口の一角を買い取り、租界義勇隊の射撃場を建設。1905年には更に虹口公園を造り、北四川路は現在の虹口公園まで延長された。第一次世界大戦終結後、日系の銀行や商社、紡織会社が上海に激増し、それら会社の80%前後の社員が北四川路の横浜橋から北の、社宅や公共住宅に住み、新たな日本人街を形成。閘北に近い地域を合わせると1927年の新日本人街の総居住者数は2458戸、7019人にまでなっている。1937年に日本軍が上海侵攻を始めてからは、北四川路の中国人と中国系商店は追い出され、日系の商店は戦前の65軒からほぼ10倍、地域一帯にある商店の総数の90%を占める約600軒に増加。こうして、北四川路の日本化は着々と行われ、名実共に日本人街になった。
北四川路沿いには、日本式の高級洋館や新式のアパートメントがあり、中でも1922年に日本東亜興業会社が社宅として建てた千愛里が有名だ。千愛里は木とレンガを使った三階建の新式里弄住宅で、道路に面して8棟、里弄内に45棟が建てられ、各棟それぞれ庭がつき、水道・電気・ガス・衛生設備がきちんと整った、快適な住宅だった。また、1920年竣工の東照里日本式住宅と、1931年に大陸銀行上海信託部が投資して建てられた大陸新村も日本人街の中では高級住宅だった。大陸新村は建築資材を全て欧米から輸入して建てられた。
こうした日系大企業の社員が住む住宅施設の周りには公園や学校、病院、書店などが並び、そのどれもが日本風だった。居留邦人が無料で利用できる日本庭園「六三花園」は邦人専用で、その中にあった滬上神社は、1932年の一・二八事変(第一次上海事変)の際に被弾し、焼失。また、当時の上海での日本の勢力を象徴するかのように、北四川路の端には日本海軍陸戦部隊本部として、巨大な軍艦のような建物が建てられた。
1924年、華盛清涼水工廠を改造し、上海歌舞伎座(竣工当初の名は上海演芸館)が誕生。花道のある、昔ながらの日本式劇場で、席数は一階が600席、二階に400席あった。この劇場以外に内山書店や月逎屋花園(料亭)、購買組合第一号店など、日本人を顧客対象にした文化施設や商店が北四川路に並んでいた。内山書店の顧客は、近隣に住む横浜正金銀行、三菱銀行、三井物産、紡織公司など、大銀行や大企業の職員が主で、中国のインテリ層や学生、キリスト教徒などもよく利用していた。当時、上海の日本人キリスト教会は北四川路林家園内にあり、毎週日曜日に礼拝・祈祷・説教などを行っていた。上海の日本人社会の中で、最大の総合病院だった福民医院も北四川路上に建てられ、その近所には石井医院があった。石井医院の石井政吉院長は文学をこよなく愛する人間でもあり、1922年に内山完造が書店で「文芸漫談会」を起こして以降は政吉もこの会の常連になっていた。
北四川路は日系の学校が集中している場所でもあった。上海初の日本人学校である上海日本尋常高等小学校(北部日本人小学校)がこの道沿いに建てられ、その近くには高等女学校が二校あり、静かな環境と教育内容の良さが受け、多くの女子が入学を希望していた。日系学校以外にも、工部局が経営する西童学校や広東人経営の広肇公学が北四川路にあった。多くの一流校が一本の道路上に林立したことで、北四川路は独特の文化的な雰囲気のある場所になり、「毎日この道を往来する男女学生たちが、とても高尚なムードをつくりあげていた」 |
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陳祖恩 |
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東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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