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第49回 上海にいた日本人 |
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三井洋行 |
陳祖恩 |
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三井洋行が1877年に上海の広東路6号に事務所を設立した。責任者は上田安三郎。これはもっとも早期に中国で貿易事業を開始した日本の大商社だった。 三井洋行とは即ち三井物産株式会社のことで、日本最大の財閥商社だ。1876年、対外貿易に従事する「先収会社」と三井の「国産方」が合併して設立した。初代社長は益田孝(1848年〜1938年)、資本金は始め5万円だった。三井洋行は設立してのち大蔵省の委託により対外貿易に従事し、米、石炭の輸出を始め、綿花、大豆の輸入と綿布、生糸の輸出を行った。1938年三井物産合名会社と名を改め、1909年更に三井物産株式会社と名を改め、資本金も2千万円に達した。 三井洋行は上海に事務所を設立した当初、西洋洋行が中国で通常に行っていた方法を取り入れ、商品の取り次ぎ販売権を中国の買弁に与えていた。中国買弁の雇用費用はとても高価で、三井洋行の中国貿易総額の1%を占めるほどだった。そのため1898年、三井洋行社長益田孝は日本の「中国通」を育てることを決定、中国買弁に変えて三井の商品取り次ぎの実権を与えることとした。 |
| 日本の「中国通」を養成するため三井洋行は上海等に商業実習生の学校を設立、日本の中高卒業生をここに送り3年間学習させた。同時に三井の会社職員の中から仕事経験の豊富なものを選び、研修生として中国で3年間学習させた。これら三井洋行の実習生と研修生は中国にやって来てから中国の労働者と同じ服を着せられ、中国人家庭と一緒に生活させられた。さらに彼らを中国人と親密に接触させるため、中国女性と結婚したものに対しては特別奨励金を与えた。このような三井洋行の訓練を通じてこれらの人々は外見も中国人と相似し、考え方も中国人と同じようになった。こうすることにより簡単に中国商人の信任を得ることができ、中国の流通の詳細な状況を得るのが便利になった。訓練を経た三井洋行の「中国通」は中国の標準語が流暢であるだけでなく現地の方言も話すことができ、現地の中国人とほとんど見分けることができなかった。
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三井物産株式会社上海支店 (四川路、1877年設立) |
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三井物産上海支店の従業員達(1892年) |
| 「中国通」が三井の訓練を卒業したあと、会社は彼らを各部門の中国
買弁と入れ替えて中国各地の事務所に派遣した。全ての貿易業務は日本人が担当し、中国人は給料の安い
事務職のみを行うこととなった。1902年から三井洋行では中国におけるすべての機構を全て「中国通」
と称される日本職員が主事することとなり、彼らは直接各地の中国商人と折衝を行った。「中国通」を使用
した効果はすぐに見えた。同年、三井洋行は中国貿易の利潤を2倍に増加させたのである。1913年、
三井洋行は対中国綿織物販売値は4倍、対中国綿布販売値は63倍に増加させた。三井洋行のこうした方法は学者に「近代商業史上の奇跡」と称されることとなった。
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| 山本条太郎(1867年〜1936年)は三井洋行上海支店の有名人だ。彼は小学校卒業後、三井物産会社の横浜支店に就職し、1880年代に上海へ来て、1901年に上海支店長となり、1909年に上海を去った。のちには南満州鉄道株式会社の総裁となった。彼は任期内に会社の通常業務の他に二つの注目すべきことをなした。ひとつは1903年彼の紹介により商務印書館と日本の金港堂が合資し、商務印書館が株式会社になったことだ。日本の技師と顧問を招聘し、商務印書館は当時中国最大規模の出版機構となった。そしてもうひとつは日露戦争に関することである。1905年の日露戦争でロシアのバルチック艦隊がヨーロッパから喜望峰を経由して日本に接近した時、どのようにこの艦隊を迎撃するかが日本大本営の大問題となった。山本条太郎は上海支店の店員をロシア艦隊の補給地カムラン湾に送り、軍艦がどのくらいの食料、石炭を積載しているか偵察させ情報を外務省に送り、外務省がこれを大本営に伝達した。ロシア艦隊の補充量が多くはないという情報を得て、大本営はバルチック艦隊が対馬海峡を通過するのを見計らって艦隊を配置し攻撃、結果、ロシア艦19隻を撃沈した。日本海海戦の勝利は日露戦争の戦局を決定した戦いである。三井洋行上海支店が提供した情報の功績は大きい。 |
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陳祖恩 |
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上海社会科学院歴史研究所副研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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