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| 上海東部の、大連路と提籃橋、黎平路に囲まれた一帯、楊樹浦。地名は楊樹浦港を縦貫していることから由来している。楊樹浦は中国近代工業文明の中心であり、戦前の上海の、日本紡織業の二大中心地のひとつだった。 |
上海開港間もなく、英・仏・米が次々に上海に租界をつくり、一八六三年六月には楊樹浦は米国租界の中に入った。同年九月、米・英租界が合併し、英美租界になる。一八七〇年、東西に抜ける楊樹浦路が敷設され、一八九九年に英美租界は東の黎平路まで拡張し、名も公共租界と改められた。楊樹浦は黄浦江に近く、地理的条件がいいため、国内外の投資家たちが争って資本投資をしたがる場所になり、「極東最大」と言われるほど大規模な中国初の発電所や、ガス工場、水道工場、紡織工場などが設立された。 紡織業界のリーダー的存在だった日本が上海に投資を始めたのは日清戦争以後で、第一次大戦が終結した一九二〇年代が一番盛んだった。日本資本と英米資本、そして中国企業が資本投資する中、一九〇二年十二月、三井物産会社が上海で中国系の興泰紗廠を買収し、楊樹浦の上海紡織株式会社第一工場とした。占有面積は約四四畝、紡錘の数は二五四八〇個にのぼった。一九〇六年に三井物産がまた中国系の大純紗廠を買取り、一九〇八年に第二工場を建立。これは楊樹浦地区に最初の紡績工場であり、日系資本が中国紡織業に進出したきっかけにもなった。
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大康紗廠 |
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楊樹浦の公大紡績第一工廠 |
第一次大戦終結後は、日本の紡織業界の上海への投資が加速し、対中投資の七〇%を占めるまでになった。楊樹浦に開かれた日系紡織工場は、前述のもの以外に公大第一工廠(平凉路二七六七号)、公大第二工廠(楊樹浦路五四〇号)、同興紡織会社第二工廠(楊樹浦路九〇号)、印染工廠(杭州路九号)、大康紗廠(楊樹浦騰越路一九五号)、東華紡織会社第一工廠(華徳路)、同第二・第三工廠(華徳路)、裕豊紡織株式会社工廠(楊樹浦路二八六六号)などがある。裕豊工廠の初期資本金は五〇〇万両で、一九三五年には一千万両を増資し、中国人従業員を七千人も抱えるほどの規模だった。楊樹浦には運龍軋華廠、大昌精練染色公司、瑞和毛巾廠、三井面粉廠、精版印刷株式会社上海工廠、公興鉄廠、黄浦鉄廠、明治制糖株式会社など、紡織工場以外の日系企業も進出していた。
楊樹浦に次々と建った日本紡織企業の工場の周辺には、工場に勤務する従業員たちへの社宅や福利施設も建てられた。早期に建てられた旧式の里弄を除き、楊樹浦地区の新式里弄の大半は、日本の紡織工場が社宅として建てたものだ。たとえば一九一五年から一九一八年までに、日商大純紗廠が平凉路一六九五弄に木造レンガ造りの二階建て家屋一七九棟を建てた。庭園や街路樹、花壇も設けら
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れた豪華な住宅は甲乙丙丁の四クラスに分けられ、職位に応じて従業員たちに分配された。
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一九一六年、日商同興紗廠が周家牌路一〇九弄に新式の里弄家屋を一六一棟建設。普愛坊と名づけた。
一九二二年、日商大康紗廠が隆昌路五四一弄と五四二弄にレンガと木材を用いた庭園付き新式里弄家屋を一四三棟建設。水道・ガス・電気が整ったこの社宅は、五四一弄は日本の幹部職員に、五四二弄は一般技術者たちにあてがわれた。
一九二四年、日商裕豊紗廠が現在の楊樹浦路三〇六一弄に新式里弄家屋一〇一棟を建設。同年、日商大純紗廠も平凉路一七七七弄に新式里弄六十棟を建立した。
一九三〇年、日商上海紗廠が斉斉哈尓路二〇五弄に新式里弄(日本式)七十七棟を建設。日本人幹部用に建てられたこの社宅には、生垣と様々な種類の樹木が植えられた庭があり、水道・電気・ガスも整っていた。
許昌路の公大紡織住宅はとても有名で、『楊浦区志』の統計によると、一九四九年までに外国人が楊浦区で貸していた家屋は四四六一棟、面積にして六二〇四三七平方メートルあり、そのうち日本人が所有していたのは全体の六一・二八%にあたる二〇八〇棟、面積三八〇二五五平方メートルだった。
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楊樹浦地区にある最初の紡績工場の内部 |
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| 上海日本総領事館が一九二七年末にとった統計では、楊樹浦地区の日本人居留民人口は三三五戸、四〇四一人。楊樹浦地域に暮らす日本人が増加したため、上海居留民団は平凉路に東部日本小学(上海第二日本国民学校)と上海日本商業学校を開いた。 |
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陳祖恩 |
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上海社会科学院歴史研究所副研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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