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第47回 上海にいた日本人 |
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“江島丸”事件 |
陳祖恩 |
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日本が敗戦した翌日の一九四五年八月十六日、中国国民政府主席蒋介石は国内外に「旧悪をとがめず、友好的な人間関係を築くのはわが民族の素晴らしい徳性である」と講和を発表。この蒋介石の講和に基づき、中国政府は在中日本人を帰国させることにした。
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| 中央日報に載せられた「蒋介石・十元講話」 |
上海で在中日本人移送を受け持ったのは国民党第三方面軍で、在中日本人たちも日僑自治会、民生商会などを設立した。上海在留日本人の指定居留区域への移動が九月十七日から始まり、九月末での上海在留日本人は九四四四一人(各地から集まった約三万人を含む)に上った。さらに陸続と各地から、実に一二万四千人が集結、帰国。計画では日本人輸送は一九四五年十一月十七日から行い、翌年四月三十日に終了する予定だったが、実際には第一便の明優丸は四五年十二月四日に日本人二千百八十五人を乗せて出航し、最終便は四六年六月まで遅延した。こうした帰国船の中で、一隻だけ日本籍の船が沈没している。これが「江島丸」事件である。
一九四六年一月二十二日午後三時、日本人約四千三百人を乗せた江島丸は長江から六十マイル離れた花島山の海上で大きな爆発音と共に水雷に接触した。この事態に船長の加藤はすぐさま救急信号を発信。ちょうど米国へ向かう米国籍の客船プレバード号が江島丸の後方三海里の地点を操行しており、信号を受信。同号も激しい振動を感じ、船主のアイリオート上尉はてっきり自船が水雷に接触したのだと思い、厳戒態勢を敷いたが、前方の江島丸の船尾が沈み始めたのを見て事態を悟り、すぐさま救助のために速度を上げた。そして江島丸の横につけ、二本の縄で二隻をつないだ。
江島丸の中の日本人たちは、水雷を受けた後もパニックを起こさず、船長の指揮に従って秩序よく甲板の上に集まり、おとなしくプレバード号の救助命令を待った。彼らの冷静沈着な行動はプレバード号の米人船員たちを感心させ、「彼らが落ち着いて行動したから救助できたのであって、もしパニックだったら、その結果は悲惨なものだったろう」と褒め称えている。だがそれでも二、三人の日本人は救助中に焦って海に落ちて溺死してしまっている。そのうち一人は女性で、自分の赤ん坊を米人船員に託して海に落ち、プレバード号のエンジンに巻き込まれてしまった。
殆どの日本人がプレバード号に助けられた頃、江島丸の沈没速度は加速した江島丸にはまだ七十五人の日本人が残っていたが、沈没に巻き込まれないためにプレバード号は二艘をつなげる縄の切断を決意。残された七十五人も救命船で無事救助されている。プレバード号が救助を始め、江島丸が沈没するまではわずか三十分。その間に急を聞きつけ救助に来た船は十五隻ほどあった。この事件で死亡・行方不明者は七十八人、重軽傷者百十一人が出た。午後六時半、江島丸は完全に海の中へと沈んだ。
江島丸はもともと貨物船を帰国船として改装したもので、戦時中は太平洋で二度に渡って魚雷の攻撃に会うも機能してきた。同船は小型救命船二隻、救命胴衣三十着を常備しており、
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| 在中日本人の移送 |
最後まで船に残っていた加藤船長の予測では、もし付近に救助の船が無ければ五百から七百人しか救出不可能だった。「まず今までの経験からまた魚雷に当たったのかと思ったのだが、船底第四号艙から水が入ってきたので、日本人が設置した固定された水雷だと確信した」と加藤は語っている。
救助された江島丸の乗客たちが上海埠頭に到着すると、上海港口運輸司令部司令官の謝 齢自らが指揮を執り、彼らの元の住まいに送り届けた。負傷者は江湾陸軍医院に移送され、治療を受けた。彼らの荷物は全て沈んでしまったため、上海日僑管理処がすぐさま夜具を供給している。彼らの生活は日僑民生商会が飲食物を供給し、各区に住む日本人たちが衣服を寄付して維持された。また、上海日僑管理処が次のような緊急救済法を決定している。一.善後救済総署に救済物品を請求する。二.日僑管理処および戦俘管理処の職員は一日分の所得を寄付すること。三.日本人を移送する際、彼らが所持していた規定を超える物品を江島丸被害者に分け与えること(第三方面軍司令官湯恩伯が上海日僑管理処に命令)一九四六年二月一日、江島丸事件の生存者の一部が明優丸に乗って帰国。 |
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陳祖恩 |
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上海社会科学院歴史研究所副研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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