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平野勇造の設計した元日本上海総領事館 |
二〇世紀に入り、上海の都市建設は急ピッチで進み、日本の建築家たちが上海へ進出し始めた。西洋風の建物が目を引く上海だったが、日本の建築家の作品もその中である程度の位置を占めていた。日本の建築家の代表的な人物が、いち早く上海で会社を興したが、その中でも数多くの作品を残したのが東北生まれの建築家、平野勇造である。
平野勇造は、元治元年(一八六四年)一一月に青森県大畑新町に堺喜藤治の四男として生まれた。盛岡藩主の実母の典医、磯田幸太郎の下で語学を学び、一七歳で大畑小学の代理教師になった。その後、不治の病とされていた結核の病因と治療法を学ぶべく、平野は渡米を心に決め、父に函館に住む叔父から二百円の借金をしてもらい、東京浅草の待乳山中で勉学に励んだ。一八八三年、勇造は長崎屋の貨物船に密航し、ロスアンゼルスに渡る。レストランで皿洗いをしながら建築学を学び続け、その努力が実り、数年後にはカリフォルニア大学を卒業。当時の日本人留学生の中には、後の日本紡織業の創始者や《時事新聞》社の社長など、傑出した人物がいる。 |
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一八九〇年、八年間の留学生活を終えた勇造は帰国し、建築事務所を開設。すぐに東京愛宕山の五重塔の主任建築家としての仕事を得る。翌年にはその成功が認められ、勇造は一躍有名になり、丸の内ビルの設計を任されるまでになった。
一八九四年、勇造は長崎出身で、三井物産と密接な関係にある平野富二の養子になり、平野勇造と改名。この関係から一八九九年に三井物産本社に入社し、すぐに上海支店長に就任。のちに上海に建築事務所を開いた。一九一六年出版の《在留官民人名録》(金風社)に平野勇造の上海での住所が記載されている。北四川路一八二号、電話番号は一八五三だった。
米国留学経験を持つ日本人建築家として、平野勇造は上海で「脱亜」的な卓越した才能を発揮。三井会社台北支店のビルを設計した後には、一九〇三年にイタリア風の近代的な三井会社上海支店ビルの設計に携わり、上海で活躍する一三人の外国人建築家の一人としてその名を連ねた。彼の代表作は現在の黄浦路にある元日本上海総領事館。三階建の暗褐色レンガ作りのその建物は、折り重なった屋根が美しい曲線を描くローマ風のデザインで、細部の彫刻にまでこだわっており、非常に華麗。一九一一年九月二九日、日本総領事館落成記念パーティには上海道台劉燕翼や各国の領事、VIPが参加した。
三井会社と密接な関係にあった現四川北路の上海日本人小学校もまた、居留民団が平野勇造に設計を任せて、建築費は一万五千両以内とすることが決定。新校舎は当時最先端の鉄筋コンクリートの四階建てで、その西洋風のデザインは上海に観光に来た日本人がわざわざ見に来るほど有名だった。一九二三年四月二〇日、勇造は日本の教育のために五百円を寄付。この額は同期の日本人の中でも最高額である。
この新校舎以外にも、勇造は上海の紡織工場やオフィスなどの工業建築も行っている。内外綿が上海に工場を建設する際も、工場・事務所・倉庫・宿舎など付随する建造物は全て平野勇造にその設計が任された。中でも一九一四年に建てられた現澳門路の工場は、中国初の鉄筋コンクリート建て工場建築で、紡織工場の建築モデルになった。一九二〇年代の日本裕豊紡織工場の工場と付随建造物も平野勇造が設計したもの。工場は鉄筋コンクリートで、ノコギリ型の屋根は鉄筋をリベット締めしてあり、天窓は磨りガラスを入れ、工場内の採光・通風・温度は全て人工でコントロールできるようにした。オフィスの壁はレンガで、窓と窓の間に壁柱を設け、屋根は虎窓を設けた斜形。職員のためのABCDの四ランクに分けられた社宅も併設された。平野勇造が設計する住宅はどれも個性があり、新しさと明るさにあふれたものだった。 |
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晩年、勇造は益田農事株式会社の董事に就任し、毎月故郷の大畑青年連合会に新聞・雑誌・書籍などを送リ続けていた。そして一九五一年、胃癌のため鎌倉で静かにその生涯を閉じた。
平野勇造は二度結婚し、一一人の子供に恵まれた。息子の平野義太郎は日本平和委員会の理事長を務め、一九五九年に内山完造が逝去した際には葬儀委員会副委員長も務めている。 |

建築家平野勇造と家族 |
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| ※本文を執筆するにあたり、平野勇造氏の親族、山口勝治夫妻ご提供の資料と写真を参考にしました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。 |
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陳祖恩 |
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上海社会科学院歴史研究所副研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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