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福民医院の創立者である頓宮寛。 |
上海在住の日本人居留民は一九二〇年代中期には二万人近くにのぼり、日本人経営の病院も大小問わず次々に開業していた。一九二六年の《上海年鑑》(上海日報出版社出版)の統計によると、婦人科・小児科・歯科・獣医などを含め、日本の病院は四十八カ所、その大半は呉淞路と北四川路一帯の、日本人居住区付近にあった。その中でも、頓宮寛が開いた福民医院が、最も大きな総合病院だった。
頓宮寛は一八八四年二月二十三日に香川県小豆郡小部村(現・土庄町)の医者の家に生まれた。祖父の頓宮斎、父の頓宮正平も医者として生計を立てており、寛も幼少の頃から医学を志していた。一九〇九年、寛は東京帝国大学医学部を卒業し、翌年、東京三井慈善病院の外科医局に就職。一二年に東京日本医学専科学校の教授になり、一八年に東京帝国大学医学部で医学博士の学位を取得した。同年、中国に渡り、湖北大治にある中国最初の鋼鉄連合企業「漢冶萍煤鉄廠鉱公司」の病院長に就任。一九二〇年、上海に渡り、北四川路で福民医院建設に着工。同病院は二十四年に完成した。一九二二年には上海南洋医学専門学校の教授に就き、雑誌《南洋医学》の主任編集も担当している。一九二七年、上海 |
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共同租界衛生委員会の日本代表委員に選任され、一九三三年、上海日本医師会会長に就任した。
福民医院は北四川路一四二号(現・四川北路一八七八号)に建てられた。地下一階、地上七階の計八階鉄筋コンクリート建の大病院にはエレベーターが設けられ、通気性や採光、防音なども十分に考慮されてある。診療科目は外科、内科、泌尿器科、小児科、婦人科、歯科、眼科、耳鼻咽喉科、放射線科などがあり、各科には専門技術に精通した医者が配置された。上海金風社が一九三三年一月に出版した《支那在留邦人人名録》に、頓宮寛(医学博士)、松井勝冬(医学博士)、庄野秀夫(医学士)、小原直躬(医学士)、高山章三(医学士)、小林元隆(歯科医学士)、吉田篤二(医学士)、高橋淳三(帝大技師)、山本顯(薬学士)など、当時の福民医院に勤務していた医者の名前が記載されている。看護士の大半は中国人で、守衛と雑役にはインド人を雇っていた。最盛時には医者、職員合わせて二百人余りが勤務する、上海有数の総合病院のひとつとして機能していた。一九三二年四月二十九日、虹口公園爆弾事件が起こり、日本上海派遣軍の司令官、白川義則陸軍大将や駐中国公使重光葵、第九師団長上田謙吉陸軍中将、第三艦隊司令野村吉三郎海軍中将、日本駐上海総領事村井倉松、日本居留民団団長河端貞次、居留民団書記長友野盛らが被弾。負傷した軍人は軍用医院へ、地方人物は福民医院へと搬送された。右腿に重傷を負った駐中国公使重光葵の執刀は頓宮寛が行い、彼の命を救った。
頓宮寛の医者としての理念は「患者は病院にとってお客様であり、人種や階級に関係なく、ていねいに親身になって、詳しく説明する努力をすべきである。患者の前では他人の悪口を言わず、不満を漏らさない。患者の前で怒らない。中国人の患者を治療する時は自分も中国人と思い、極力通訳を介さない。」彼は福民医院の経営において、一般的な中国の日系病院が日本人を中心に医療サービスを提供しているのに反し、中国人を治療対象の中心に、次に在留欧米人や日本人を対象にした。そのため、彼は英国、ドイツ、ロシアなどから医者の招聘も行い、院内では日本語、中国語、英語、ドイツ語、ロシア語などさまざまな言葉で会話が交わされていて、とてもインターナショナルな雰囲気だった。 |
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福民医院は魯迅が通院した病院のひとつだ。一九二九年九月、魯迅はわが子周海嬰をここで出産させた。出産の際、夫人の許広平は十五日間入院し、魯迅は毎日、時には友人も連れて夫人を見舞った。退院後は周海嬰の検査や予防接種などに魯迅自らが病院を訪れている。また、体調が悪いと訴える友だちには、福民医院での治療、入院を勧めていた。一九三三年七月、魯迅は南京鉱路学路と日本弘文舘の同級生、張協和之子が入院し、手術する必要があると知り、内山完造を介して福民病院を紹介した。十月二十三日、福民医院での治療によって張協和之子が治癒したことへの感謝の表しとして、頓宮寛院長、吉田篤二外科医師、高橋淳三放射線科医師や会計などを招待し、「叫化鶏」「西湖ドゥン菜湯」など杭州料理などをふるまっている。
一九四六年、頓宮寛は帰国しても医療への情熱は失わず、元福民医院の関係者を集めて小豆島の内海町に、内海病院を開設し、初代院長に就任した。 |

1930年代の福民医院外観 |
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| *本文は香川県小豆郡土庄町の上田行雄氏が提供してくださった資料を参照にしています。、ここに厚く感謝の意を示します。 |
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陳祖恩 |
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上海社会科学院歴史研究所副研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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