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三井会社から発行された月 牌 |
月キン牌は近代に生まれ、上海では旧正月を祝う「年画」として定着しているものだ。リバイバル風に伝統的な木版の年画や歴画は、工筆画を駆使した神話・伝説・歴史的故事などに商品広告を加え、カラフルなリトグラフで印刷したもので、商品宣伝効果が高い広告として、企業や消費者に広く親しまれてきた。月 牌研究者が、「月 牌」という単語は清の光緒二十二年(一八九六年)に出来たと指摘している。当時、四馬路(福州路)の鴻福来呂宋大票行が、彩票(宝くじ)のおまけにつけていた『滬景開彩図・中西月 牌』が上海月 牌の始まりだ、とその研究者は言うのだが、確実な説ではない。というのは、一八八〇年に岸田吟香が上海河南路(四馬路付近)に開いた楽善堂薬舗が既に「月 牌」を発行していたからだ。ここから「月 牌」という単語は常に上海最大手の新聞『申報』に登場した。
一八八〇年、楽善堂が上海にオープンしてからというもの、毎年旧正月には『申報』を通じて読者に立派な月 牌を贈り、楽善堂とその商品の名を広く知らしめ、上海名所になった。一八九三年一月二十九日楽善堂は「申報」で「本堂は開店以 |
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来毎年銅版五彩月 牌などを贈り続け、今年で十数年。皆様に愛用されて、大変ありがとうございます。」と掲載。『申報』は楽善堂の月 牌を掲載し始めてから、毎回紙上に「鳴謝雅贈」と発表。下記文面は岸田吟香と楽善堂に対するそれまでの感謝を表し、同堂の宣伝をしたものである。 |
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上海楽善堂の店風景 |
「日本岸吟香先生以蓬莱之仙客、精芸術之奇方、至申歴有年所、其為人也、恂恂尓雅、有隠君子風、曽捜得中華珍籍数十種、鐘以銅版、縮為袖珍、士林得之、往往珍為枕秘。暇時更究心医術、利済為心、所制丸敷膏丹、試之輒有奇効。古人詩雲、半積陰功半読書、其先生之謂・。昨承自制中西合歴、紙細若牛毛、明于犀角、五光十色、分外新奇。本館把玩之余、用志数言、以申謝忱」(『申報』一八八五年四月八日)
「日本岸吟香君搏雅好古、精于 正文字、復擅青襄術、杏林春暖、久噪芳名。昨承贈予本年中西合壁月 牌、雕鏤精工、顔色鮮麗、懸于座右、実足悦目賞心、不第 算周詳、足備随時瀏覧也。謹綴数語、以表謝忱。」(『申報』一八八六年二月二十三日)
「岸田吟香先生創設楽善堂薬室于本埠河南路、歴年新歳、必印成中西合歴、惠贈同人、上方遍絵東国衆仙及扶桑勝景、新奇佳妙、早已記諸報端矣。今歳岸老已返棹東瀛、延我友藤田重遠主理一切。昨承以数 十幅見贈、併●●(原稿のまま)石印日本内閣諸大臣象。」(『申報』一八九〇年二月十日) |
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上述の『申報』の資料からも分かるように、楽善堂が上海で発行した月 牌は銅版印刷技術を用いており、色鮮やかで美しい印刷を良質の紙に施した、「牛の毛のように細かく、サイの角のように明るい」ものだった。楽善堂月 牌の絵は扶桑(日本)に伝わる神話や風景、または日本政府の役人たちの絵が描かれ中国暦と西洋暦の両方を印刷していた。美しい印刷に人々は、「壁にかけて眺めるだけで楽しめる」と喜び、単なる楽善堂の広告ではなく、上海人の文化的生活の流行になっていた。
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絶えず『申報』に月 牌を掲載していた楽善堂は、新年に見事な処方箋もつけることがあった。一八九二年二月の『申報』の中の「啓示」で、以下のように掲載している。
日本岸吟香先生精于岐黄、無微不至、制成妙薬、独得真伝。十余年前就滬上分設楽善堂薬房、現先生帰国、「由藤田代氏為経理、留心炮制、其薬尤霊。慈用銅版印成薬単、套以名人所絵雲龍、併祝新年吉利語。請本館于今日附送閲覧者鑑之。」
月 牌を上手く利用して、見やすく美しい処方箋を創ったのも、楽善堂のオリジナリティある広告方法である。
楽善堂は月 牌のプレゼント方法に工夫を凝らしている。一八八九年十二月末、東洋の劇団「服部松旭齋」の中の著名俳優天一が上海特別公演を行った。彼はまず「西楽園」で、その後四馬路の「桃源趣」で約二ヶ月に渡って公演。おりしも旧正月で、劇団は水芸や火芸、帽子の中の卵つかみ、目隠し箱から色々な手品など凝った演出をした。天一は、数十枚の紙幣をお盆の中に入れて「皆様にプレゼントです」と見せたが、ひらりと手をかざすとその金が楽善堂の月 牌に早代わり。観客は予想外の和風のプレゼントに新春気分も手伝って大喜びだった。 |
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陳祖恩 |
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上海社会科学院歴史研究所副研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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