上海ウェネバーオンライン
中国(上海・北京)生活情報満載!!
Contents / Old Shanghai
4月
■ 上海のドン 杜月笙の軌跡
杜月笙―1920年〜30年代の上海、裏社会のボスであり、政府の要人でもあった彼の名を聞くと、当時の上海の人々は身を硬くした。既に、彼が亡くなって半世紀以上が経つものの、今でも彼の逸話や武勇伝に興味を持つ人は後を絶たず、彼や彼が治めていた地下組織を主人公にした映画や舞台がいくつも製作されている。


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3月
■ 外灘5号の日清大楼
今年1月18日、外灘5号のレストランで、メディア漫歩創刊9周年記念と新年を祝う茶話会が行なわれた。当日は沢山の来客であふれ、大盛況だった。主催のメディア漫歩が会場に外灘5号を選んだのに意味があったのかどうか筆者は知らないが、このビルは日清汽船会社(Japan-ChinaSteamship Co.) の本社ビルとして建てられ、「日清大楼」と呼ばれていたものである。


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2月
■ ワンタン
中国の江南地方は稲作地方だ。当然米が主食で、小麦粉を原料とした加工食品は、副食品とされている。主食は飢えを満たすもの、副食は食事を楽しむためのもの。小麦加工品を主食としている北方の人々からすると、江南の小麦加工品は種類が豊富で、ワンタンも種類が豊富だ、という。今月は、 このワンタンにまつわる話をいくつかご紹介する。


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1月
■ 『オールド上海のポリス』
ポリス(警察)は社会の治安を維持し、犯罪行為の調査のために組織された人々、と定義できよう。その職責と業務内容により、警察の名称は若干異なる。中国では、地域の戸籍・人口、治安を担当するポリスを「戸籍警察」、町の道路交通を担当するのを「交通警察」、刑事偵察、犯罪者を逮捕する業務を担うのを「刑事警察」、更に業務上、制服を着ずに普段着で任務を執行するのを「便衣(普段着)警察」とそれぞれ呼ぶ。古代中国には「警察」という単語は存在せず、警察制度が実施されるようになったのは、上海からである。


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12月
■ 『多倫路文化街』
虹口区にある多倫路は、現在多倫路文化街として芸術的な雰囲気が満ち溢れる街だ。1911年 に公共租界工部局が敷設した道路で、当時は竇楽安路( ダロック・ロード) と名づけられていた。 今月は多倫路の歴史的由来と今も現存する2つの建物について紹介する。


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11月
■ 『点石斎画報』
『点石斎画報』は中国初の時事ニュースをメインにした、石版印刷の総合的な画報で、1884年5月8日に創刊された季刊誌だ。1898年末に停刊するまでに掲載した絵画は6000点に及び、まだ写真を印刷できなかったこの時期に、同誌は絵と文章で19世紀後期の中国社会と中国人の思想を記録し、近代中国の研究をするにあたって非常に貴重な資料として、各界から珍重されている雑誌である。


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10月
■ 外灘の記念碑たち
ここ数年、上海は日々変化を続けており、市街地の範囲もどんどん拡充されている。一般に大都市には、大通りの真ん中にまるで庭園のような広場などの公共スペースが設けられていること が多いが、上海もその例に漏れない。上海にはその昔、様々な彫刻や記念碑が街のあちこちに建てられていた。上海のシンボルでもあったこれら記念碑を今月は紹介したいと思う。


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9月
■ オールド上海の競馬場
競馬は上海で最も人気のある賭博だった。レースのたびに大勢の上海人が、時には何万人以上もの人々がレースを見ようと競馬場に集り、交通が麻痺してしまうこともあった。中華人民共和国の成立後、競馬は賭博行為として厳重に取り締まられ、競馬場は人民広場と人民公園へと姿を変えてしまったが、今月はこの競馬場の歴史とそれにまつわる話を紹介する。


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8月
■ 中国の七夕
陰暦7月7日(今年は西暦8月19日)には、中国でも伝統的な七夕の行事が行なわれる。「夕」 という字は、太陽が西に沈むひと時を指すことから、七夕の行事も、「夕」に関連したものが多い。 また、中国では一般にこれらの行事は、女性たちだけで行なわれ、女性の生活にも関係しているので、七夕の行事を「女性節」と言う人もいる。織姫と彦星が、天の川を渡って会える1年にたった1度の大事な日という伝説から、七夕を中国のバレンタインデーにするべきだという声もあるが、いずれにせよ、中国にとって大事な1日であることに変わりはない。


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7月
■ 元駐上海日本総領事館物語
1972年9月25日、田中角栄首相が中国国務院周恩来総経理の招きで訪中を果たし、中日両政府が北京で共同声明を発表。中日両国の国交正常化がこの日、成立した。そしてこの時から、日本駐上海総領事館が上海市淮海中路1517号の建物に設けられ、数十年の間、上海居住の、あるいは上海に旅行に来た日本人がこの洋館に出入りしていた。これまで、知人、友人を問わず、日本人の方々にたずねられた、この洋館の歴史やエピソードを今月は紹介したい。


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6月
■ 端午の節句 こぼれ話
陰暦五月五日(今年は西暦6月19日)の端午節は、数ある中国の節句の中でも重んじられている祭日の一つ。その起源にまつわる話は色々あるが、一般的には、戦国時代の楚の大夫、偉大なる愛国者だった詩人屈原を記念したものと言われている。また、五月五日の端午節と、七月七日の「七夕」、九月九日の「重陽」は、月と日が同じ数字だから作られた節句だ、という説もある。今月はこんな端午節に関連する上海の諺を紹介する。


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5月
■ オールド上海の三百六十行 その8
農暦は陰と陽の二つを合わせた暦だ。地球の気候の変化に最も影響を及ぼすのが太陽と月。地球が一周自転する時間は「一日」と計算され、地球が太陽の周りを一周するのは一年、約365.25日。この一年を24等分したのが、中国で用いられている農暦の「二十四節候」だ。古代、二十四節候の全てが祭日で、それぞれの時期に適した催しや慣わしがあったのだが、盛大に祝われる祭日がある一方で、あまり重要視されない祭日は、殆ど日常生活と同じように過ごされていた。


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4月
■ オールド上海の三百六十行 その7
『後漢書』は後漢(西暦25年〜220年)の歴史を記録した大作。その中の「蔡倫伝」に、 次のような一文がある。「蔡倫は、木の枝と麻頭、ボロ布、破れた魚網を水の中に浸し、それらが腐敗したら糊状にして、食物繊維が含まれた紙を製造した」。現在、蔡倫は中国の製紙術の発明者として公認されている。紙は今では常用文房具だが、古代中国では、宗教・風俗・迷信などに用いられていたため、中国各地には様々な製紙・加工方法を持つ作業場や店舗があった。


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3月
■ オールド上海の三百六十行 その6
今年は4月5日が中国の清明節。古代には寒食節と言ったこの祝日は、言い伝えによると、春秋時代の晋文公が介子推を記念し、毎年この日は火を炊くことを禁止したため、どの家庭も冷えた食べ物しか食べられなかったことから、この名がついたと言われている。その後、祖先を祀る日になり、墓参り、墓掃除をする日として定着した。現在でも清明節は中国人にとって大事な祭日だ。今月の三百六十行は、清明節に行なわれる風習やそれに伴う道具、清明節の行事で生計をたてる人々を紹介する。


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2月
■ 正月十五の「接財神」
中国の道教は「多神教」で、その神様の数は一万以上いる。ゆえに道教の敬虔な信者であったとしても、道教の神様にまつわる神話などはせいぜい十分の一ほどしか把握していない。だが、誰でも知っている神様も大勢おり、財神はその最たるものだろう。中国は数千年続いた農耕社会で、中央政府は長期間に渡り農業の発展を治国の基本とし商売の地位は低いという「重農軽商」「崇本抑末」の政策を取っていた。ゆえに商業の代表たる財神の誕生は比較的遅く、神と崇められるようになったのも他の神様に比べて遅い。


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7月
■ オールド上海の「三百六十行」 その5
急速な発展とともに、上海には外国や中国のその他の地方からたくさんの人と物が流入し、交通と就職の問題が発生した。そのためこの時期には攤橋頭のような交通補助手段が登場したり、東洋車のような新しい交通機関が現れてその製造、運行のための職業が誕生したりした。上海で仕事を見つけられなかった人は棋攤といった自分の頭脳に頼った商売を始めることもあった。これらは彼らの生活を維持し、また上海の新しい風景をも生み出したのである。



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12月
■ オールド上海の「三百六十行」 その4
江南の水郷、上海は、町中を河が走り、小さな湖が散在している。昔は殆ど車が走っておらず、交通といえば船とカゴだった。開港からわずか20年で、中国最大の対外貿易港へと成長した上海。黄浦江沿いには埠頭・桟橋・倉庫がずらりと並び、はしけの上を忙しそうに貨物を運ぶ人々でごった返すようになったが、貨物を運搬する道具がないために、肩に担いで運ぶしかなく、労力に反比例し、効率は非常に悪かった。



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11月
■ オールド上海の「三百六十行」 その3
中国が銀本位制を引いていた頃、通貨は白銀と銀元だった。白銀の単位は両、通貨として使われるときは「銀両」と呼ばれ、一枚の銀元は銀両7.2銭に相当した。1930年代の上海で、男性の月収は約5元。この非常に高価な銀元の小額取引には手間と煩雑さが生じたため、銅元が銀元の補助貨幣として使われ始めた。同時代の1銀元は2400銅元に相当した。



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10月
■ オールド上海の「三百六十行」 その2
中国語で、色々な職業のことを「三百六十行」と言う。どんな職業でも、それぞれ特徴があるものだ。オールド上海時代、市民の生活に密着した色々な商売があり、彼らの店や行商する姿が上海風情に色を添えていた。上海の発展と共に廃れ、もしくは技術や営業方法を変えてしまったかつての商売を、今月から数回に渡り、紹介していく。



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9月
■ オールド上海の「三百六十行」
中国語で、色々な職業のことを「三百六十行」と言う。どんな職業でも、それぞれ特徴があるものだ。オールド上海時代、市民の生活に密着した色々な商売があり、彼らの店や行商する姿が上海風情に色を添えていた。上海の発展と共に廃れ、もしくは技術や営業方法を変えてしまったかつての商売を、今月から数回に渡り、紹介していく。



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8月
■ 上海のホテル・・・リチャード・ホテル
2006年6月30日、黄浦江沿いの浦江飯店で「Whenever SHANGHAI 」 のパーティが開かれた。浦江飯店は上海を代表するオールドホテルの一つであり、その重厚味あふれる外観と雰囲気に、パーティ参加者も興味を抱いたようだ。今月はこのホテルの歴史や特徴、それにまつわる物語を紹介する。



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7月
■ 上海の電報
人類が初めて発明した電信手段は、電報だ。英語ではテレグラフ(Telegraph)と言うが、この単語は電報が発明される前から「音の伝達」もしくは「視覚の伝達」という意味で使われており、この電波で伝達する方法にも同じ単語が用いられた。発明されて以来、世界各国で長期間活躍した電報は、中国では上海にいち早くその電信網が普及した。



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6月
■ 上海の小吃と点心
「点心」と「小吃」。正式な食事以外の食品、軽食を指す。人は空腹時にはイライラしがちで、「点心」には物を少し食べてイライラを鎮める、という意味もある。一方「小吃」は「閑食」とほぼ同じ意味で、上海人が言うところの「軽く何かつまむもの」である。色々なエピソードを有した上海小吃たち。今月は、いくつか紹介する。



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5月
■ 浴仏節と龍華廟会
中国には、定期的に開かれる市の一つに「廟会」というものがある。仏教や道教などの記念日に寺院の中で行なわれる、日本で言う縁日のようなイベントで、四方八方から集った信徒達がお香を炊き、礼拝する。露天商の格好の商い場所でもあることから、廟会は廟市とも呼ばれ、民衆的な風習として各地で定着した。



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4月
■ 清明節は鬼の日
清明時節雨紛紛,路上行人欲断魂。借問酒家何処有?牧童遥指杏花村。  
これは唐代の詩人、杜牧の詩《清明》という詩。詩の中でいう清明の時節は、江南地方では雨と晴れが交互に来るような季節。今年の清明(西暦4月5日)もおそらく小雨が降るだろう。



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3月
■ 2月19日の観音誕と挑青節
上海の言語と文化を研究するには不可欠な《滬諺》という本がある1922年出版、呉祖徳著)。上海の諺や民謡が収録されたこの本の中に「2月19、晩食タニシ,称“挑青節”」「過仔挑青節,天陰也不冷」という諺が掲載されている。この挑青節とはどんな日なのか、仏教とどういうつながりがあるのかを、今回はたどる。




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1月
■ 外白渡橋物語
蘇州河に初めて架けられた外白渡橋。その後、乍浦路橋、四川路橋、河南路橋、老閘橋(福建路橋)、橋(浙江路橋)、西蔵路橋、烏鎮路橋、新閘橋、長寿橋、昌化路橋、江寧路橋(竣工順)など一本、また一本と次々に蘇州河に橋が増えていった。いくつかの橋の命名にはちょっとしたエピソードがある。今月はこのエピソードを紹介する。


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1月
■ 外白渡橋物語
蘇州河の正式名称は呉淞江という。1840年以降、上海にやって来た外国人たちが、蘇州へ通じるこの川を「SOOCHOW CREEK」と手紙や本に記し、中国人がそれを蘇州河と訳したことから蘇州河という名が生まれた。だが呉淞江全体ではなく、上海市内に流れる部分だけを蘇州河と呼び、郊外のそれは依然として呉淞江のままだ。外白渡橋はこの蘇州河に最初に渡された橋である。 Contents / Old Shanghai





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12月
■ 100年前の流行
上海環球社が出版した《図画日報》は大規模な総合的石版印刷の画報だった。発刊期間は1909年8月から1910年8月までのわずか一年だが、当時の人々が上海の流行に対する思いや認識を描き出した雑誌だった。今月はこの雑誌からうかがうことのできる、当時の女性の装飾品の流行を追う。 Contents / Old Shanghai





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11月
■ 「三寸金蓮」
かつて、中国の様々な風習や文化が日本へと伝えられたことは言うまでもない。だがなぜ纏足は日本に浸透しなかったのだろうか。そもそも纏足とはなぜ始められ、なぜ廃れたのだろう。今月は纏足の歴史を紹介する。 Contents / Old Shanghai
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9月
■ 上海にあった博物館(下)
かつて上海にあった博物館の数は多くはないものの、その存在意義は大きかった。今月は「大上海計画」が実施された、江湾にあった二軒の博物館を紹介する。
1928年7月、上海・広州など四大都市が「特別市」に制定され、1930年に更に《市組織法》が公布されて、中国で「市」という単語は行政による区分けで使用されるようになった。その時の上海は租界が市中心になってしまったため、中央政府の批准を経て、「大上海計画」即ち上海東部の江湾(現在の五角場の東北に位置)に新しい上海を作ろうという計画を実施することになった。上海市政府及びその関連機関をこの新上海に移し、少しずつ上海の中心を新上海へと移行させ始めた。・・・
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8月
■ 上海にあった博物館(上)
主に歴史・芸術・科学の三つの分野に大別される博物館。中国の博物館の歴史は、その定義に忠実に言えば、近代上海にできたのが始まりである。
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7月
■ 外灘の気象信号台
外灘の延安東路黄浦江沿いに、円筒状の、塔のような建物が建っている。初めて外灘にやってきた観光客の殆どが、「これは何の塔?」と思うこの建物は、かつては気象予報のための気象信号台だった。
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6月
■ 上海輪船招商局
輪船招商局は中国が設立した中で最大の運輸企業だった。招商局は中国近代初期運輸業のシンボルであり、その道程は近代中国が発展の厳しさを物語っている。
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5月
■ 宋靄齢と孔祥煕
今月は宋家三姉妹の長女、靄齢を紹介しよう。1890年、虹口の老宅里の家に生まれた彼女は、中国の一般家庭と同様に、両親の寵愛を受けられず、一家の長女としての責任ばかりが彼女の肩に乗しかかった。
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4月
■ 宋美齢と上海
宋美齢は宋氏三姉妹の中の一番末の妹で、姉妹中で一番反抗的な子だった。慶齢の反抗は父に背いて孫文に嫁すというものだったが、美齢の反抗はキリスト教の教義に背いて妻のいる蒋介石に嫁すというものであった。  
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3月
■ 上海と宋慶齢
かの宋氏三姉妹はみな上海で生まれ、生活をし、仕事をし、たくさんの足跡を残した。今月は今でも残る彼女たちの史跡をたどってみよう。
中華人民共和国名誉主席、宋慶齢は一九八二年に北京で亡くなった。本人の意向で遺骨は先に亡くなった彼女の使用人・李燕娥と共に、宋慶齢両親の墓の前に埋葬された。
宋慶齢は上海生まれだが、上海のどこで生まれたのかは未だに知られていない。一九二七年に宋慶齢が独身時代に住んでいた公共租界の西摩河三百六十九号(現・陜西北路三百六十九号)の家が、彼女が誕生し、幼少時代を過ごした家だ、と旧万国公墓にある宋慶齢生平事跡展覧の従業員は言っている。だが、つい最近、日本の宋慶齢基金会の仁木富美子女史が送ってくださった、一九一三年に宋慶齢が日本宛に出した手紙二通を見ると、封筒の差出人の住所は「上海東有恒路六二八c」とある。
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2月
■ 新年と年画
正月初一は新しい一年が始まる最初の日。ゆえにその日を「新年」とも言う。中国で最も大切な伝統的祝日のこの日には、旧年に別れを告げ、新年を迎え、祝うための様々な風習がある。年画を貼るのもそのうちの1つである。
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1月
■ 銭荘と票号
前号でも紹介したが、中国は長い間「銀本位制」を取り、白銀を貨幣の主体とし、その重さで貨幣価値を計算していた。白銀の価値は非常に高く、明代と清代初期には白銀数両で江浙一帯の1畝の土地が買え、白銀1両あれば数石(江南地方では1石=80キログラム)の穀物が手に入った。
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2004年12月
■ 上海の近代貨幣
紙鈔(紙幣)が完全に流通貨幣として確立するまで、中国も他の国と同様、銀本位制(Sliver Standard)、すなわち白銀を用いた貨幣制度を布いており、外国製の銀銭も用いていた。
古代、純分が九五%以上の白銀を「足銀」と読んだ。足銀は溶かして鋳る際に表面に規則正しい筋ができるので、「紋銀」との別称がついたという説がある。交易をする上で、銀は重さで計算する。単位は両で、一両は十六分の一斤 約三一・二五グラム。よって銀を通貨として使用する場合、「銀両」という呼び方がよく使われるようにもなった。
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2004年11月
■ 会館と公所
旧租界時代に上海に存在した会館と公所。会館は主に同一地方出身者の団体を、公所は同業者団体を指し、どちらも現在の同業組合に似たような意味合いを持っている。
会館と公所は、一般的に故郷を離れて生活する同郷の者たちが交流し、トラブル解決や相互援助、救済などを目的に作られた団体のことを指す。かつて、中国では同じ地域の中で一種類、もしくは数種類からなる同業者を重視し、結束していたため、職業や地方によってその会館・公所の特徴も様々だった。
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2004年10月
 漕幇から青幇へ
清朝宮廷を舞台にしたドラマの中でしばしば丐幇、鹽幇、漕幇などの言葉を耳にしたことがないだろうか。丐幇は乞食、鹽幇は塩売り、では漕幇とはどういうものなのだろうか?
漕と槽という字は、共に物の凹んだ部分を指す言葉だが、漕は溝や堀を指すのではなく、水上運輸を指すことが多い。古代、運輸されるものの大部分は食糧だったことから、「漕運」とは主に食糧を水上運輸することを指した。
元朝が大都(現・北京市)を都に定めた頃の米の主要産地は江南地域で、従来の政権が江南に対し、税として米を徴収していた。この税は漕米や漕糧、民間では皇糧と呼ばれた。江南各地の漕米は江蘇の太倉に集められた後、ジャンクに載せられ長江を出発。沿海を北上して運ばれたため、太倉は「巨大な米倉」と呼ばれていた。北送される皇糧の大半は官吏の給料だったため、現在でも公務員を「吃皇糧的(皇糧を食べる人たち)」と言う。
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2004年9月
 中秋節
旧暦八月十五日は中国の中秋節。今年は陽暦九月二十八日にあたる。中秋節は中国でも最も重んじられる伝統的な祝日の一つで、家族団欒の意味も含む。今月は中秋節の由来や習慣を紹介する。
中国の旧暦では、四季の一季(三ヶ月)を順に「孟・仲・季」と呼び分けている。八月は秋の二月目なので「仲秋」だったのが、簡略化され、「中秋」と記されるようになった。旧暦とは陰暦とも言い、月の満ち欠けの周期によってその暦は変化する。毎月初一は月が見えないので、「朔」と言い、十五の夜は満月なので「望」と呼ばれた。
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2004年8月
■ 上海人と闘蟋蟀
古書に「蛩」と記されている蟋蟀(コオロギ)。このイナゴに似た体の小さな昆虫は、地方によって呼び名が違う。一番多い呼び名は「ququ」だが、上海周辺では「SE JIE」と言うことが多い。


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2004年7月
 牌九
牌九は麻雀と同様、「骨牌」に含まれる遊びだが、牌九は賭博性が強く、麻雀は娯楽的・趣味的要素が大きいため、今日では牌九は「賭博ツール」、麻雀は「賭けもできるゲーム」としてとらえられている。賭博ツールとされてから長いからであろう。今日では牌九をする人、覚えようとする人はどんどん減ってきている。
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2004年6月
 端午の節句
通りを歩いていてふとヨモギを燻す香りを感じ、「ああ端午の節句が近いな あ」と気づく。端午の節句は中国では旧暦五月初五、今年は西洋歴六月二 十二日だ。では、今月は端午の節句と上海人のその過ごし方を紹介しよう。
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2004年5月
 麻将閑話
中国文化の精粋とも言うべき麻将(麻雀)。中国の半分以上の人が麻雀好きだと言う統計もある。その起源は明朝の“馬吊”と言われており、清乾隆年代に刻印された揚州画舫録に、その当時揚州の妓院(妓楼)で麻将が流行っていたと記載されている。牌の数は125枚だったのが、発展と改良を重ねて嘉慶年間には現在の144枚になった。中国には色々な文件(書簡)がある。麻将で遊ぶことを冗談で「学習144号文件(144号書簡を学ぼう)」と言っていた時期もあった。
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