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外灘5号の日清大楼
  今年1月18日、外灘5号のレストランで、メディア漫歩創刊9周年記念と新年を祝う茶話会が行なわれた。当日は沢山の来客であふれ、大盛況だった。主催のメディア漫歩が会場に外灘5号を選んだのに意味があったのかどうか筆者は知らないが、このビルは日清汽船会社(Japan-ChinaSteamship Co.) の本社ビルとして建てられ、「日清大楼」と呼ばれていたものである。  
 

 

日清汽船上海支社。

日清汽船会社
1895年、日中が締結した「下関条約」の内容は多岐に及ぶが、その第六条で、湖北省荊州府沙市、四川省重慶府、江家省蘇州府、浙江省杭州府に、日本が通商ポイントと租界を設置することに清政府は同意しており、かつ日本の汽船が「湖北省宜昌から長江を上り、四川省重慶府まで」と、「上海から呉淞江に入り、運河を通って蘇州府、杭州府まで」を通航することが許可された。この下関条約協定以前に、すでに東京の日本郵船会社と大阪の大阪商船株式会社が数本の日中海上運輸路線を就航させていたものの、中国内の河川運航は認められてはいなかった。同条約締結により、上海在住の日系商人たちが、上海・蘇州・杭州の通運をメインにした大東汽船会社や、長江から湖南までを結ぶ湖南汽船会社などを設立。大阪商船株式会社も「長江運航部」を新たに設け、長江運航競争に参加した。
だが、分散した経営は、日本の河川運航能力を発揮できないとして、1907年、上記3社が中国国内河川運航グループ設立を宣言し、「日清汽船会社」を設立。本社は東京に、中国本部を上海に置き、通航を許可されている各都市にも支店を設置した。設立から数年で、日清汽船は最も競争力のある通運グループに成長。統計によると、1907年の設立資本金は810万円だが、1917年の資本はその2倍、1600万円(当時の日本円は銀貨)にまで膨れている。
数年前、日中合弁企業が「日清餅干(クッキー)」の発売を始めた。この「日清」という企業名の由来を理解している中国人、日本人は意外にも多くない。百数年前の清朝時代、中国にはたくさんの「日清」がついた企業があった。清は清朝、つまり大清の清。日清の英名は「Japan-China」つまり「日華」という意味である。


日清大楼


30 年代の外灘の風景。当時の日清大楼がかすかに見える。

1914年、欧州で第一次大戦が勃発し、中国在住のヨーロッパ人の関心はこの戦争に集中。中国の日系企業にはまたとないビジネスチャンスの到来だった。チャンスを得た日清汽船会社は、終戦の頃には日本郵船会社、大阪商船会社と並ぶ日本三大運航グループに成長。1918年、同社は外灘5号(広東路20号)の土地を買収し、自社ビル建立に着工した。
ビル設計、施工は英国商社の徳和洋行(Lester,Johnson&Morriss)に依頼。同社は上海にある有名建築事務所で、日系商社は何度かこの会社を利用している。仕事を受 注した徳和は、何かインスピレーションを得られることを期待し、日本の近代建築スタイルを視察するために横浜や東京にデザイナー を派遣。視察を終え、上海に戻ったデザイナーはすぐさま設計にとりかかった。
今も昔も外灘は上海の一等地。
どんな会社でも外灘の一角に居を構えるだけで、その地位も名誉も倍増する。日清汽船が所有する土地は約1280平米あったが、外灘に面しているのは 28メートルだけしかなく、ここをビルの正面にするのはかなり無理があった。 知恵を絞った設計士は、広東路と外灘それぞれに面した部分を、ビルの正面に決定した。
日清大楼は鉄筋コンクリートの6階建。建築面積は9151平 米で、ネオクラシシズムと現代派を融合させた、「折衷主義」のデザインで設計された。正面2ヶ所のスタイルは統一し、2階と3階の間、5階と6階の間に造形フリーズを入れてビルを分節。この様式は上海のネオクラシシズム建築でよく見られる「三段式」で、上海にある、他の近代西洋風の建造物にもよく用いられている。最下層の円柱に挟まれた門は、中間部の半円形の窓につながり、最下層の中央には両開きの円形窓、その間に長方形の窓をデザインした。デザイナーはこうした変化を取り入れることで、視覚的な立体効果を生み出そうとしたのである。また、ビル中間層、つまり3階から5階までの窓を全て長方形にしたのは、現代建築の規則的な統一感を表すためだった。最上層、つまり6階から上の部分は、伝統的な建造物のような非機能的な装飾はあえて用いず、ネオクラシシズム建築の基本的な装飾を施すだけにした。こうした工夫の甲斐があり、日清大楼は上海「折衷主義」消防建造物の中でも成功した作品のひとつに仕上がった。
この徳和洋行が設計した日清大楼は、日本近代建築の要素は感じられないものの、よくよく見ると、外灘に面したドアの上、銅の門の回りに、日本でよく見る菊の花をモチーフにした装飾が施されている。恐らくデザイナーが日本を視察した際に目にしたものが応用されているのでは、と推察する。
日本が上海租界に進駐。 浦東にあった日清埠頭。
 
   
 
作者紹介
薛理勇  Xue Li yong
1982年より上海市歴史博物館に所属し、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」 「閑話上海」「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。