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外灘の記念碑たち
  ここ数年、上海は日々変化を続けており、市街地の範囲もどんどん拡充されている。一般に大都市には、大通りの真ん中にまるで庭園のような広場などの公共スペースが設けられていることが多いが、上海もその例に漏れない。上海にはその昔、様々な彫刻や記念碑が街のあちこちに建てられていた。上海のシンボルでもあったこれら記念碑を今月は紹介したいと思う。  
 
勝利の女神
 
 


現在の外灘、延安東路の黄浦江沿いにあった記念碑である。
1914年、ヨーロッパで勃発した第一次大戦は、瞬く間に火の手を世界中へと広げた。上海在住の外国人、社会団体も直ちに青年を入隊させた結果、何百人もの外国人が上海から戦場へと出兵することとなった。
終戦後、上海から出兵した外国人たちが続々と上海に戻ってきた。だが、参戦のために、負傷の後遺症で仕事が出来なくなった人、戦死してしまい永遠に上海に戻ることが出来なくなった人々も 多数いた。公共租界工部局は、上海在住の外国人及び外国人社会団体に対し、善後処理をしようと呼びかけた。そうして建立されたのが、江西路と九江路の交差点にある聖三一大礼拝堂(1861年建立。現在は保護文化物に指定されている)で、記念堂内の石碑には戦死した人々の名前が刻まれた。
英商上海総会(上海クラブ。上海在住英国人のメイン団体で、現在の中山東一路2号にクラブハウスがあった)は、国、民族の偏見を捨て、戦死した人々を追悼す 記念碑を建立した。この記念碑の正式名称は欧戦(第一次大戦)記念碑だが、勝利の女神の彫刻だったことから「勝利女神記念碑」と も呼ばれた。また、勝利の女神は知らないが、アメリカの「自由の女神」は知っている上海人の誤解 から「自由の女神記念碑」とも呼ばれていた。
1922年2月8日、欧戦記念碑が落成し、英国駐上海総領事のフレイザー氏(Everard Duncan Home Fraser)の主催により記念碑落成式が開かれた。彼はここで次のような祝辞を述べている。 「我々の祖国が存亡の危機にあり、ヨーロッパが戦火に見舞われている中、祖国から、戦場から遠く離れた国に住む海外居住者たちが、 祖国を守るため戦地に赴き、自らの血を流し、命を投げ打って祖国の尊厳を守りました。彼らの偉大なる功績は、どんな経済的援助よりも得がたいことは言うまでもないことでしょう」。この式典には各国の駐上海領事、武官など千人あまりが戦死者に献花した。
そもそも「勝利の女神」とは、1863年にギリシャのエーゲ海 北部にある、サモトラケ島で発見された、世界でも屈指の考古学的大発見とされる彫刻である。双翼の女神が戦艦の台座に昂然と立ち、勝利の角笛を吹き鳴らすさまを描いた彫刻で、豊満な胸を張り出し、双翼を広げて海風に立ち向かう姿は、勇敢で若々しい女性のパワーを感じさせる。もちろん、上海の勝利の女神像はこのギ リシャの女神と同じデザインではなく、現代風にアレンジされており、その姿も人間に近い。勝利の 女神を第一次大戦記念碑に選んだのは、正義と悪が戦い、そして正 義が勝利したということを表現したかったからだろう。
1937年の八一三淞滬会戦(第二次上海事変)後、上海は陥落し、1941年、太平洋戦争が勃発した。日本軍と汪精衛(汪兆銘)の傀儡政権は欧米の中国への影響を排除すべく「大東亜共栄圏」を確立し、元租界当局が市街地に残した彫刻を徹底的に破壊。第一次大戦記念碑の一つだった勝利の女神像も破壊されたが、台座が非常に大きかったため、全てが破壊されたのは1950年代になってからだった。

伊尓底斯(イルティス)記念碑

外白渡橋の南側のたもとに、沈没したドイツの軍艦を記念するイルティス記念碑があった。
1894年から1895年の甲午戦争(日清戦争)中、ドイツは山東半島の自国の利益を守ろうと、複数の軍艦を青島および山東半島へと向かわせた。終戦後、これら軍艦はそれぞれに撤退。だが、軍艦「イルティス(ILTIS)号」 は黄海海域で暴風雨に遭って沈没し、乗員全てが海の藻屑と消えた。その後、ドイツ人が軍艦を引き上げたが、修復が不可能なほど著しく損傷していたという。このイルティス号沈没により、上海在住のドイツ人たちはイルティス号と船員の記念碑を上海に建立することを計画し、外白渡橋の南側のたもとに、引き揚げたイルティス号の折れたマストと舵を中心にした、独特かつシンプルな美しいデザインの記念碑が誕生した。上部がV字形に折れた6メートルのマストが大理石の基盤の上に置かれている。ロープはマストの上部から下まで垂れていた。下には青銅で作った花輪と十字架が描かれた軍旗と、まるで海の風に吹かれてはためいているような帆布が飾られ た。土台の正面はイルティス号の船が帆を張って、大海を進んでいるレリーフが彫られ、背面にはドイツ語の碑文が書かれていた。碑文は「1896年7月23日に、中国黄海で暴風雨により遭難した砲艦イルティス号とその全船員を記す」と記されている。
第一次大戦中の1917年、中国はドイツに参戦布告した。その終戦後もイギリスやフランスのドイツへの敵視が消えることはな く、1918年12月2日の深夜、きわめてドイツを嫌っていた英国人がイルティス記念碑を引き倒す事件が起きた。その時にはドイツ人はほとんど帰国してしまっていたので、この出来事に干渉しようとする人も、記念碑を再建しようとする動きもなく、イルティス記念碑は上海から姿を消した。

 
 
写真説明    
(1)1861年建立の聖三一大礼拝堂
(2)勝利の女神記念碑
(3)勝利の女神記念碑の遠景
作者紹介
   
  薛理勇  Xue Li yong
1982年より上海市歴史博物館に所属し、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」
「閑話上海」「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。