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オールド上海の競馬場
  競馬は上海で最も人気のある賭博だった。レースのたびに大勢の上海人が、時には何万人以上もの人々がレースを見ようと競馬場に集り、交通が麻痺してしまうこともあった。中華人民共和国の成立後、競馬は賭博行為として厳重に取り締まられ、競馬場は人民広場と人民公園へと姿を変えてしまったが、今月はこの競馬場の歴史とそれにまつわる話を紹介する。  
 

「ファイブス」と抛球場

 
 


大砲馬候鼓声催、夷女同登望馬台。
五色衣裳看仔細、阿誰先奪錦標来。

この詞が描いているのは、清朝末期の『申江竹枝詞』に掲載された上海競馬場の情景だ。賑やかな太鼓の響きやコースを疾走するカラフルな衣裳の騎手を載せた駿馬の姿、たくさんの西洋人の男性と女性たちが観覧席から、馬券が当たることを祈りながら固唾を飲んでレースの行方を見守っている様子を詠んでいる。
上海開港後、競馬や馬を飼うことを好む西洋人たちの上海移住と共に、競馬も上海へと伝えられた。1846年頃、居留英国人たちが上海馬総会(上海レースク ラブ)を設立。株発行で資金を募 り、現在の南京東路の北側から河南中路の西までの、約5.4ヘクタールの土地を購入し、競馬場を設立した。コースは400メートル足らずしかなく、少々短いため、南門の外に更に直線のコースを敷設。馬がこの道を疾走する姿がよく見られるようになったため、この道は「大馬路」と呼ばれるようになったという説がある。この道が現在の南京東路である。上海は江南の水郷であり、野生の馬はいない上、上海人には馬を育てる習慣はなかったのに、道路のことを 「馬路」というのは、この「大馬路」が発端と言われている。
この競馬場は、外周のレースコースの中に、色々な性質を持つ運動場があった。いくつかの施設の中で最も大きかったのが、「ファイブス」というスポーツ用のコートだ。一面が壁になったコートに、高さの異なる柵をつけ、1人が壁に跳ね返ったボールが柵を越えるようにボールを投げ、もう1人がそのボールを受けるというルール。現在は「搶手球」と訳されているが、当時はボールを投げあうというルールから、「抛球」と呼ばれ、競馬場も「抛球場」と呼称されるようになった。今でも、河南中路と南京東路の一帯を「抛球場」と呼ぶ古参の上海人がいる。
現在、普通の英漢辞典の中に 「ファイブス」という言葉は掲載されていない。字面だけであて推量して、「ファイブ」の複数形だから抛球は「五柱球」と訳すべきだと主張する人もいたが、ならば一体「五柱球」とはどういうスポーツなのかと聞くと、答えに窮し、 口をつぐんでしまうのだった。

第2競馬場

1843年、上海開港から数年で、居留外国人たちが住む外灘一帯の地価は、数倍に高騰し、外灘に近ければ近いほど高額になった。1851年頃、上海レースクラブは、買取価格から10倍近い値段で競馬場を売却し、それを元手に比較的地価の安かった現在の北海路、湖北路、西蔵中路一帯の約 11ヘクタールの土地を購入、以 前の競馬場よりもずっと長いコースを持つ、新しい競馬場を建立した。 だが、せっかく新設したこの競馬場も、数年で売られてしまう。太平天国が清軍の「江北」、「江南」 大営団の包囲から逃れる為に忠王李秀成を派遣し、彼が率いる軍隊を東に進軍させたからだ。李秀成 は半年で鎮江、常州、無錫、蘇州、 杭州、寧波など、江蘇南部と浙江北部の主要都市を制圧したため、 それらの地方の難民がどっと上海租界へと押しかけたのである。統計によると、1860年の上海租界の総人口は2万人足らずだったのが、1862年には20万人を超過した。租界当局は突然なだれ込んできた難民のための住居の手配が必要となり、租界の地価は瞬く間に大幅な値上がりを見せた。上海レースクラブはこの好機を逃す手はないと、新競馬場の土地を全て売却したのである。工部局の規定に基づき、この競馬場のコー スは道路に改築された。現在、上海の地図を見ると北海路と湖北路が弓状に曲がっていることが分かる。この道が第2競馬場のコースだったのである。

 

第3競馬場

1899年になるまで、租界の西の境界線は泥城浜(1916年代にこの地沼を埋めたてて、道路を築いた。現西蔵中路)だった。上海レースクラブは第2競馬場の土地を売却した後、上海道台の認可を得て泥城浜から西の約28.7ヘクタールの土地を購入し、新・競馬場を建立。今回の規模は非常に大きく、コースは2キロメートル近いものが設計された。
毎年、春と秋に、大規模なレースが開かれ、通常月曜から水曜までの3日間、土曜日には馬術の実演などが行なわれた。上海レースクラブ本拠地も競馬場に移転し、更に競馬場の西側にVIP台と観覧台を増設。コースの中の空き地にはゴルフコースやプールなどの施設を作り、閲兵式や消防演習などの大規模なイベントも、ここで行なわれるようになった。競馬は抗日戦争が激化した1937年に基本的に終止されるまで、開催され続けた。 中華人民共和国成立後に出版さ れた『六十年上海見聞竹枝詞』に、次のようにある。  

馬庁圏民衆地、春秋両賽賭西商。
如今盛会却来此、還我人民大広場。

この詞の意味は、競馬場は民衆の土地、長い間レースクラブとして賭博が行われてきたが、現在の 賑やかさは以前のようで、私たちの手に戻った土地は人民大広場となった、というものだ。
国際的慣例に基づき、租界にあった競馬場の土地は全て中国に返還された。1956年、上海市人民政府が大規模な改修を始め、上海レースクラブビルは上海図書競馬場の観覧台西蔵路。右側の空き地が競馬場館に、競馬場は北部を人民公園に、 南部は人民広場へと姿をかえ、この場所が上海市中心部の中心に、上海の基点になった。郊外から上海までの距離は、郊外から人民広場への距離である。
1990年代、人民広場は再び 改修され、上海市政府ビルが広場の中央に、その両側に上海大劇院 と上海都市規劃展示館、向かいには円形の、世界に名だたる上海博物館が誕生した。

 
 
写真説明    
(1)当時の競馬の様子
(2)清代に描かれた上海競馬場
(3)競馬場の観覧台
(4)西蔵路。右側の空き地が競馬場
作者紹介
   
  薛理勇  Xue Li yong
1982年より上海市歴史博物館に所属し、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」
「閑話上海」「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。