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私の手元に、オールド上海の絵葉書がある。裏の説明書きに「ABENUEPAULBRUNAT,SHANGHAI」中国語では「上海宝昌路」と記されている。
宝昌(PaulBrunat)氏はフランス人で、1881年に上海仏租界公董局董事を勤めてから、1982年、1900年、1901年と連続して選任された、上海の租界時代の非常に知名度の高い人物の一人。1900年まで、仏租界の西の境界線は現在の西蔵南路だったが、彼が董事に就任し、上海と租界拡張条約を結んで、同租界の西境界線を現在の重慶中路にまで延伸させた功績がある。1901年、仏租界は西蔵南路から華山路までの、東西に伸びる道の敷設に着手。西江路と名づけられたこの道路は1906年に全線開通し、仏租界拡張と西江公路敷設の貢献をたたえ、西江路はPaul Brunat Avenueと正式に命名された。第一次大戦勃発間もなく、フランス総司令官J.J.C.Joffre将軍が、危機にありながらも軍を統率し、ドイツ軍の西線侵攻計画を粉砕し、フランスの救世主とたたえられた。1916年、宝昌路は彼の名をとり、Joffre Avenueと改名。この道が現在の淮海中路である。
このハガキが実際に発行されたのは1909年、右側に映っている建物が今日の淮海中路1517号の住宅なので、この建物は1909年よりも前に建てられたということが分かる。
関連資料を調べると、この建物の最初の権利所有者はドイツの拜月顔料廠(Bayer&Co.Friedr)の上海公司で、総裁の住宅兼従業員宿舎として利用されていた。第一次大戦中の1917年、中国が参戦布告をしたため、国際的慣例に基づき、中国内のドイツ難民は敵国難民としてドイツに返還され、この住宅も盛宣懐に買い取られた。ゆえに現在、この建造物を紹介する本や文章の殆どは、「盛宣懐住宅」あるいは「盛公館」と表記している。
盛宣懐
盛宣懐(1844〜1916)。江蘇武進(現江蘇省常州市)の人。字は杏 、号は愚 、止叟。1870年に楊宗濂の推薦で李鴻章の幕に入り、行内文案と営務処会辨を兼任。李鴻章の信任を得て重用された。1873年、李鴻章の命令で上海に輪船招商局を創建。初の中国独資による運輸会社である。創立当初は会辨に就き、後に督辨に昇進。1893年、楊樹浦の上海機器織布局を華盛紡織総廠に改組し、督辨の任に就く。1879年から1896年まで、天津河間兵備道という職務や、天津海関道兼津海関監督を臨時で代行し、李鴻章の海外外交を積極的にサポート。中国の「洋務(外務)派」の代表的人物、「洋務運動」のさきがけとして広く知られるようになった。
1896年、盛宣懐は湖広の張之洞総督から漢陽鉄廠、大冶鉄鉱を接収管理し、両工場と西萍郷煤鉱を合併して、中国最大の鉄鋼生産・冶金公司「漢冶萍煤鉱場鉱公司」を設立。同年、大清国督辨鉄路総公司事務大臣、頭品頂戴太常寺卿」の肩書きを使い、ベルギーと『盧漢鉄道借款合同』を締結し、中国内の鉄道敷設を海外国と提携して実施する先例を作った。さらに、中国鉄道技術者と管理者育成のために、天津に「北洋公学」(現・天津大学)と、上海徐家匯に「南洋公学」(現・上海交通大学)を創設。こうして様々な分野で活躍した盛宣懐は近代中国の伝奇的人物なのである。
1911年、10月10日、武昌起義(※)が起こり、盛宣懐は日本に渡った。日本滞在中、漢冶萍公司董事会の許可を得ずに日本で『合弁漢冶萍公司協議』を締結したため、総理の職を罷免された。1916年、上海で病没。彼の家族は盛宣懐のために盛大な葬式を催し、上海人は「盛杏 大出喪」とこの葬儀を呼んだ。その当時の『上海竹枝詞・盛杏 大出喪』に、その様子が記されている。「絢爛豪華な葬儀の列が街中を進み、老いも若きも外人も中国人も列をなす。経費は30万もかけており、さすがは破天荒な盛宣懐なり」
その後も大規模な葬儀は行なわれたが盛宣懐の規模を超えるそれはいまだないという。
(※)武昌起義・・・武昌の新軍と中国革命同盟会が武装蜂起し、武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮を制圧した、辛亥革命の幕開けとなった事件。
盛宣懐の遺産没収
盛宣懐は清朝の有力な臣で、1911年には大清尚書にも任じられ、大清帝国の国有企業をいくつも掌握し、清帝の退位後は、北洋政府の重要な職位にも前清朝官吏、つまり盛一派が就いていたため、公金の使い込みや国有資産の転売などを彼らが行なっても、それを取り締まる勢力はなかった。
盛宣懐は1916年に上海の斜橋盛寓(南京西路・成都路一帯にあった建物。現存せず)で亡くな
り、現・淮海中路1517号の物件は1917年以降に売りに出さ
れ、盛氏の子孫が購入した。上海市城市建設档案館が所蔵している書類の中の、この物件に関する資料は、1930年代に盛氏の子孫が、庭の花の飾り棚の修理を仏租界公董局に申請しているものだけだが、上海市歴史博物館には、同物件の建造物及び室内装飾物の写真が20枚ほど保管されており、書斎の写真には、盛宣懐の遺像が確
かに映っている。盛家の子孫が、いつごろ、どのような方法でこの住宅を取り返したのかは調査する
術がなく、言い伝えが残るばかりである。
1927年、蒋介石をトップとする南京国民政府が樹立。1929年9月28日、江蘇省政府の鈕永建主席が上海県に対する意見を述べ、それを受けた古応蘇文官長、
江蘇省政府鈕永建主席、上海特別市張群会市長が一同に会し、盛宣懐の遺産没収を宣言。国民政府はそれを認可した。10月5日、上海
特別市政府が次のように通告。
「盛宣懐は国の資産をむさぼり、私財を蓄えた動かぬ証拠がある。国民政府の令を受け、一族の資産を全て差し押さえ、没収する。」実際には、盛宣懐の死後早々に、彼の動産は殆ど別の場所へと移されていたため、没収されたのは主に不動産であり、淮海中路1517号の物件は、盛宣懐の子孫が買い入れたため、没収対象からは外された。 |