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白銀が貨幣として使われていた時代、その形から「錠」と呼ばれていた。 古代には物体を焼くと、その物体は煙に代わり、煙になった物体は、あの世の古人の手に渡ると信じられていた。ゆえに民間では、「紙錠」や「長錠」と呼ばれる、錫を塗った紙を錠の形に折りたたみ、燃やして煙にし、故人があの世で使うお金として送り届けていた。この行為は旧上海で、ごく一般的な祖先を祀る習慣として定着していた。 21世紀になり、上海は人口数百万を誇る大都市に変貌し、長錠の需要も増加した。上海で長錠の製造・販売に携わる業者は2種類ある。一つは浙江紹興人で、紹興で製造した錫箔を上海に輸送し、老城廂の「施相公弄(現・潮碼頭街)に、巨大な錫箔・副葬品市場を形成。もう一つは浦東の農村に住む女性達。彼女達は施相公弄から錫箔を購入し、長錠に加工して販売。その利益を家計の足しにしていた。 中国は「百善孝為先」を尊ぶ国家であり、祖先を祀ることは「孝(孝行)」の大事な形だ。祖先の命日や宗教的祝日以外に、陰暦朔望(毎月初一と十五)も祖先を祀る日であるため、朔望の前日には、上海の街頭に長錠売りが現れる。肩に担いだ長い竹竿に沢山の長錠をぶら下げ、「長錠いらんかー長錠!」と大声を張り上げて売っている姿は上海ならではの光景だった。 中華民国時代の『上海鱗爪竹枝詞 売長錠』には次のように記載されている。
浦東婦女頗勤労、
朔望明朝記得牢。 挑到一肩長紙錠、
問人“阿要”喊声高。
1910年に上海環球社が出版した『図画日報』の中の『営業写真 売長錠』と題した絵の注意書きに、「大小月底長錠焼、此風之開由妓寮。」とある。上海では毎月初一と十五に長錠を燃やす風習が妓楼から始まり、その後社会的に広まった、という意味である。 錫箔は紙に錫を塗って造るので、燃やすと紙は灰になり、錫は溶けて炉に残る。溶けた錫は再利用できるので、上海には、各家庭を回って「錫箔灰」を集める業者も登場した。以下に紹介するのは、『営業写真 収紙錠灰』に配された文。
紙錠灰、白如雪。
莫使飛飛化胡蝶。
背篭有人隧処収、
収来造作還塊錫。
現在でも長錠売りの姿は見られるが、錫箔灰収拾者は殆どいなくなった。
鑿紙銭
19世紀末から20世紀初頭頃の、上海男性の1ヵ月の給与は約白銀2.5両。白銀を小額貨幣として使用するには非常に不便なため、中国は銅銭(銅元・制銭とも言う)を補助貨幣として発行。清朝末期、白銀一両は銅銭2000枚に相当した。 白銀も銅銭も金属の貨幣であり、北宋時代の文学者、欧陽修は「五代礼壊、寒食野祭而焚紙銭」(寒食は寒食節のことで、冬至から105日目、清明節つまり西暦の4月4日か5日に相当)と記している。後人の殆どはこの欧陽修の判断、即ち中国の祭祀、或いは葬儀のしきたりの中の、紙銭を撒き、燃やす行為は、五代(西暦907〜960年)から始まったという説を信じ、その後風のように広まり、特に北方で盛んに行なわれた。 紙銭は銅銭を模倣したもので、紙を折りたたみ、専用の道具で穴を開けて、銅銭が串状に連なっているように形作り、葬儀で、出棺する一行が墓地に向かう時に、紙銭を撒き散らしながら歩く。この習慣は民間では「買路銭」と呼ばれ、冥土の政府の官吏に、今から行く死者を安全に迎え、安置してくれることを祈るものだ。遺体を安置した後は、紙銭を墓地の周りで焼き、死者に「現金」として渡していた。
紙銭亦名長楽銭、
一個一個紙上連。
落地無声不可用、
経火一化飛上天。
(『画図日報 営業写真 鑿紙銭』の絵に配された詩)
現在でも、中国農村部では、出棺時に道々紙銭を撒き、埋葬後に紙銭を燃やす風習は残っているが、上海などの大都市では1930年以降から次第に行なわれなくなった、だが1980年までは、上海でも葬儀の際、遺体に別れを告げ、葬儀場から帰宅する道々、花輪にかけられた紙を撒き、家に到着すると玄関でその花輪を焼いていた。この習慣も古代の焼紙銭の名残である。 大都会上海では、各戸が花輪や紙花を撒いたりすれば、美観を損なう上に交通事故にもつながりかねず、全面的に禁止されているが、花輪を焼く習慣だけは今でも行なわれている。
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