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オールド上海の「三百六十行」 その5
  急速な発展とともに、上海には外国や中国のその他の地方からたくさんの人と物が流入し、交通と就職の問題が発生した。そのためこの時期には攤橋頭のような交通補助手段が登場したり、東洋車のような新しい交通機関が現れてその製造、運行のための職業が誕生したりした。上海で仕事を見つけられなかった人は棋攤といった自分の頭脳に頼った商売を始めることもあった。これらは彼らの生活を維持し、また上海の新しい風景をも生み出したのである。
 
 
攤橋頭
 

 

江南の水郷、上海は、町中を河が走り、小さな湖が散在している。昔は殆ど車が走っておらず、交通といえば船とカゴだった。開港からわずか20年で、中国最大の対外貿易港へと成長した上海。黄浦江沿いには埠頭・桟橋・倉庫がずらりと並び、はしけの上を忙しそうに貨物を運ぶ人々でごった返すようになったが、貨物を運搬する道具がないために、肩に担いで運ぶしかなく、労力に反比例し、効率は非常に悪かった。だが、川幅は狭く、両岸には建造物が密集しており、長い橋を架けて傾斜を下げることができず、結果、蘇州河のどの橋も険しく、人力車が橋を渡るのに大変な労力と汗が必要だった。そこで登場したのが、人力車専門の助っ人、攤橋頭である。
攤橋頭をする殆どが浮浪者、上海人が言うところの「三」で、彼らは乍浦路橋の両側に集り、貨物を積んだ老虎車(大八車の一種で、1.5トンも積載可能なことから、この名前がついた)の姿を見るや否や飛び出して行き、車を橋の上まで押し上げ、駄賃を車夫にせびった。
昔は、黄包車と呼ばれた人力車が、上海の主な旅客車で、1870年にある日本在住の米国牧師が発明したという。その三年後、メナードというフランス人がこの人力車を上海にもたらし、都市の公共交通車として使いだした。日本から来たということで東洋車と名づけられたが、目立つように車体を黄色く塗ったことから黄包車と呼ばれるようになった。
黄包車の車体は軽く、人を乗せていなければ、橋を渡るのも苦にはならない。橋にかかると乗客は車を降りて、歩いて渡っていたが、攤橋頭が人力車の通過を無理矢理手伝うため、乗客は降りるに降りられず、しぶしぶ攤橋頭に「押し賃」として駄賃を渡していた。
『上海鱗爪竹枝詞』に、次のような描写がある。

黄色車子到橋辺,己有人来推橋頭。
頃刻伸開烏黒手,無非向客討銅銭。

攤橋頭も上海の三百六十行の一つであり、攤橋頭で一家を養っている者は沢山いた。1980年代まで、十六舗一帯は上海の青果・水産などの卸市場があり、対岸の浜北の小売業者が商品を仕入れて帰る際、大八車を使い、乍浦路橋を渡る。そこでまた新たな攤橋頭が活躍したのだが、数年のうちに貨物輸送に自動車が導入されたため、攤橋頭の仕事は上海では成り立たなくなり、消失した。

東洋車製造
1874年1月20日付の『申報』が、「外国の人力車が登場」と東洋車について記載している。「中華の人力車と大きく異なり、夜でも雨の日でも駆動可能。車体には幌がついていて、雨でも服が濡れることはない。この機能性の高い人力車に乗りたがる金持ちは多く、この商売は儲かるだろう」
東洋車導入時、租界工部局は東洋車500台の営業許可証を発行。都市交通が便利になった上、東洋車は安く購入でき、かつ運転手雇用により上海の就職難も解決できた。三年後の1877年の統計では、1500台に、20世紀初頭には約5000台にまで増えている。 
旅客運搬車である東洋車は損壊率が非常に高いため、東洋車導入と共に、製造・修理業も発展した。残念ながら正確なデータが発見できなかったため、製造・修理工場が何軒あったかは 不明だが、「東洋車製造業」を三百六十行の一つに数えることに、問題はなかろう。





 


















擺棋攤
象棋(中国将棋)は中国の「国将棋」だ。象棋の歴史は2千年前の西漢時代まで遡る。将棋板を楚界と漢河に分け、二つの敵対する陣営が師・仕・象・車・馬・炮・兵の駒で戦う。普通、会話で他人と交流するが、将棋は駒を動かし、対話する。ゆえに象棋には文語では「手談」とも記される。
昔は半数以上の男性が象棋を打て、象棋の強さが教養の高さを図る基準にもなっていたため、誰もが象棋の研究に没頭し、後人が感嘆する数多くの対局記録が残された。
20世紀に入り、上海が数百万の人口を抱える大都市になると、贅沢で享楽的な生活を送る者が増えた。また、しばしば戦争や自然災害などで一万人以上の難民が租界へと避難してきた。そして中国の民族工業の発祥地、工業・商業が最も発展している都市でもある上海には、就業チャンスが多くあるため、郊外の流民も職を求めて上海へと住み着いたため、上海は流民が最も多い都市にもなった。
上海になだれ込んだ流民たちはすぐに職にありつけるわけではなかったが、象棋に長けた者は、昔の対局記録の「寄せ記録」をいくつか記憶しておくだけで営業可能な「擺棋攤」という商売を始めた。中国には象棋好きが多く、その殆どが自分の腕に自信があり、そうした人たちが擺棋攤の周りに群がり、各々の打ち方で擺棋攤に勝負を挑んだ。
擺棋攤は通常、1対2から1対10の倍率で金を賭ける。推敲に推敲を重ねた、難攻不落の対極記録を記憶していれば、勝ちを譲ることは決してなく、常に客が負けていた。1907年出版の『滬江商業市景詞・擺棋攤』に、次のようにある。

設攤未擺看棋攤,車馬安排任客看。
布列陳図招放手,賭銭変化亦多端。 

今では上海に擺棋攤の姿を見ることは殆どなくなったが、地方都市の路上にはまだ健在である。

 
写真説明    

(1)車を橋の上まで押し上げる「攤橋頭」。
(2)雨が降った日にも駆動可能な東洋車。
(3)上海の主な旅客車になった東洋車。
(4)東洋車を作る工場写真。
(5)上海の路上にあった棋攤。

作者紹介
   
  薛理勇  Xue Liyong
1982年より上海市歴史博物館に所属し、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」「閑話上海」「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。