| 1860年、南京を占拠した太平天国は、町をぐるりと包囲している清軍を突破すべく、忠王李秀成率いる軍を東に進め、上海へと向かった。清政府は李鴻章の淮軍(淮は安徽省の略称)を派遣し、上海に駐在させることで、太平軍を鎮圧した。
丘陵の多い淮南には、独特の手押し一輪車が大事な交通・運搬器具として用いられていた。当時、6千人あまりの淮軍が上海に駐屯しており、この一輪車も淮軍と共に上海に持ち込まれた。長江の南岸に位置する上海に住む人々は、長江から北の地域を「江北」と呼んでいたため、この淮軍が江北から持ち込んだ一輪車も「江北車」と名づけられた。江北車はその形が羊の角や牛の頭に似ていたため、「羊角車」「牛頭車」などとも呼ばれたが、一番よく使われたのはシンプルに「小車」という呼称だった。
江北車が上海に登場すると、たちまち主要交通手段として活躍するようになった。その頃はまだ「東洋車」(人力車)がまだ上海にはなく、街の移動は主にカゴを使っていたのだが、一人の客を運ぶのに二人の車夫が必須である上、運賃は高く速度は遅い。自然と江北車が貨物だけではなく、人も乗せるようになった。1904年に工部局が公布した「巡捕房職務章程」の中に、「小車の積載量は500磅(約450斤)を、人は8人を越えてはならない」と規定していることからも、人の交通手段として用いられていたことがうかがえる。
19世紀末から20世紀初頭は、上海の紡織工業が盛んになった時期だ。紡織工場では沢山の女工を雇ったが、彼女達の殆どは纏足をしていて歩行が困難なため、近くに住む女工同士で1グループを作り、小車の荷台に乗って出退勤をしていた。こうした女工の殆どが浙江や湖州出身のため、上海人たちに「湖絲阿姐」と呼ばれた彼女たちの出勤風景は、上海のほほえましい光景の一つだった。
江北車は一輪なので安定が悪く、うっかりすると車も車夫もひっくり返ってしまう。その転ぶ姿が、両端が上に向いている元宝銭のようなので、上海人は江北車がひっくり返ることを「元宝翻身」または「鯉魚翻身」と呼び、喜んでいた(上海人は一般に鯉は食さず、旧暦正月十五の福の神を迎える時に供えるので「元宝魚」と呼ぶ)。だが、こうしたエピソードも、現代の上海人で知っている人は殆どいない。
江北車の製造
江北車の発展は、江北一帯の製造業の発展も促した。江北車は基本的に全て硬質の木材で作る。当時の上海には、太くて硬い幹を持つケヤキが数多く生えており、江北車製造には殆どこのケヤキが使用された。また、車輪軸とハンドルが最も壊れやすいため、ハンドルの外側に鉄を薄く貼って補強し、操縦しやすく改良。こうした改良で、江北車の寿命も延ばすことができた。
上海周辺には大きな山がない。そのため、建造物や道路を作るための石は主に浙江や江蘇から運び込むしかなく、その値段は非常に高かった。コストの問題から、かつての上海の道路は泥道や炭塵などを使っていた。
細くて硬い車輪の江北車が沢山の貨物を積んで走れば、路面には深々と溝が出来る。でこぼこ道の走行は非常に困難なため、道路に改良が加えられるようになった。道の中央部に石の溝を2本敷き詰め、江北車はこの石の上を走ることで、余計な負荷がかかることなく通行できるようになり、道路の損傷も減った。
1920年以降、他の種類の車両が登場したことで江北車は徐々に減り、現在ではその姿は全くと言っていいほど見られなくなった。
挑水夫
近代以降、海辺の小さな田舎町から中国の「巨大埠頭」へとその姿を変えた上海。街の人口の増加に比例してゴミの量も急増。近代工業が興り、工場汚水も河川に直接流され、生活用水が汚染されるようになった。1882年には水道設備が完成していたものの、浄水工場の水源は汚染された河川であり、水道の水は飲料水としての基準を満たさなくなった。
昔は肉体労働者への福利や保障条件が非常に悪く、埠頭では雇った労働者に何の保障も与えない店主があちこちにいた。汗まみれで働く者に、飲み水は欠かせない。そこで登場したのが「挑熟水」という商売だ。自分の家の玄関にかまどを作って水を沸かし、その水を埠頭で労働者に売るのである。大きな桶一杯分の飲料水の原価はたったの10文銭。それを50文銭で売っていたのであるから「ぼろ儲け」の商売だと、瞬く間に挑熟水たちが増加した。
個人で水を売る人々以外に、上海には「老虎 」と呼ばれる、飲料水を売る店(熟水店)があちこちにあった。老虎 の繁忙時間は早朝と夜。朝10時から夕方4時までは営業せずに、店主は人をやとって飲料水を埠頭まで売りに行かせていた。Dは1921年に撮られた写真。場所は十六舗埠頭で、「水売りがお湯を売っているところ」と題されている。こうした写真が現存しているのは非常に珍しい。
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