1869年、ヨーロッパの電報業開拓のため、デンマーク・ノルウェー・英国電報会社とデンマーク・ロシア電報会社、ノルウェー・英国電報会社が共同出資し、大北電報公司(Great Northern Telegraph Co.)を設立した。会社登記はデンマークに、本部はコペンハーゲンに置かれた。1870年、同社は極東での電報業務開拓のために大北中日電報公司(Great Northern Telegraph China & Japan Extension Co.)を設立、上海に本部を設置した。
これと同時期、英国の東方電報会社も極東地域開拓を目指し、大東電報公司(Eastern Extension, Australia & China Telegraph Co., Ltd)を設立。1870年、大北電報公司と大東電報公司は協議の上、共同でヨーロッパからアジアへのケーブルを敷設。さらに極東での作業分配を次のように定めた。
中国の長江及び長江沿岸は大北電報公司の経営範囲とし、南の境界線として香港を越えてはならず、大東電報公司の極東での経営範囲は南方を主とし、北の境界線として上海を越えてはならない。香港・上海間は原則としてその利益を均等に分配することとする。
大北電報公司は主に長江から北と、上海―長崎、長崎―ウラジオストック間のケーブル敷設を担当し、大東電報公司は長江から南と、シンガポール―サイゴン―香港、香港―マニラの海底ケーブル敷設を担当した。
電報は世界の国と各都市の距離を縮め、商業・新聞・政治・軍事などで大きな役割を果たし始めた。記載によると、1884年6月、蚕糸商業界が、前年の蚕糸生産量が前年に比べ25%減であり、更に、今年の欧州主要蚕糸生産国の一つ、イタリアの蚕糸生産量が凶作のためにガタ落ちとなるという予測を発表した。これは世界中の蚕糸が供給不足で急騰するというニュースだったため、上海の私営金融機関は、千載一遇のチャンスとばかりに巨額の資金を蚕糸買占めに投じた。だが、中国内の外資系企業はイタリアの蚕糸生産量は減っているどころか増加しているという情報を電報によって既に入手していた。そして欧州の蚕糸相場が下がり、上海で蚕糸に投資した商人たちは破産。私営金融機関も回収不能による倒産の憂き目にあい、上海に深刻な金融騒動が巻き起こった。
1883年から1885年、中国とフランスの戦争がベトナムで起こった際、上海の新聞各社は電報を活用して逐一戦況を入手し、かつ「電訊」つまり電報や電話などで戦況を報道したため、「電訊」という単語は「リアルタイムでニュースを流す」という意味で使われるようになった。
中国電報局
各国の電報会社が中国進出を果たしたことで、軍事・商業などに電報が活用され始め、人々の関心を引いた。1880年、李鴻章が『奏設電報』をしたため、中国の電報局設立許可を仰いだ。
李鴻章の電報局設立申請はすぐに許可され、李は上海に中国電報局を建てるよう盛宣懐に委託。1880年、中国電報局は上海から蘇州・丹陽・鎮江・揚州・靖江・台児荘・済寧・泰安・徳州・滄州などの市を通り、天津までケーブルを敷設。各市には電報送受信所が設けられた。中国電報局が敷いたケーブルは大北電報公司のそれと同じ経路を辿っていたため、両社は『中国及び外国相互電報送受信契約』を締結し、電報の料金徴収方法や各自の経営地域、提携内容などを定めた。その後、中国電報局は上海から漢口への「楊子線」、上海−寧波―福州を結ぶ「南海線」などを開設し、沿海及び長江沿岸の主要都市での電報利用を可能にした。
電報大楼
大北・大東電報公司は、設立当初は南京路の民家を借り、そこを本部にしていた。1880年、中国電報局が外灘7号の招商局の中に設けられ、大北・大東も同ビル内の一室に移転した。この2社が入ったことで、招商局は「電報大楼」と通称されるようになった。因みに、現在外灘7号にあるビルは、1907年に再建されたものである。
中国の電報業の発展スピードは非常に速く、1924年には大北電報公司は現在の延安東路34号にあるビルを買い取り、移転。このビルは大北電報大楼と呼ばれた。その後、大北・大東及び米国籍の太平洋商務電報公司(Commercial Pacific Code Co.)も大北電報大楼に移転した。
第一次大戦中の1917年、中国はドイツに宣戦布告する。国家間戦争の慣例に基づき、中国にいるドイツ移民は敵国難民として本国に送還され、中国内にある、ドイツ政府関連産業は中国政府に接収管理された。公共租界の福州路と四川路の交差点(現・四川中路200号)にあったドイツ政府が経営する徳国書信館(Inperial German Post Office)ビルも中国政府に接収管理され、中国電報局が使用するよう手配された。電報局は通達を受けて同ビルの改築を開始。電報局移転後はこのビルも電報大楼と呼ばれるようになった。
発明されたばかりの電報は有線であり、電報業の発展・市場開拓にはケーブルと電線敷設が不可欠だったが、1926年以降、中国にも無線電報が伝わり、電報業はコストが大幅に削減された上、伝達地域は更に遠方へ、伝達場所は更に増え、電報の開通と進歩は中国経済の発展にも大きく貢献した。
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