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清明節は鬼の日
清明時節雨紛紛,路上行人欲断魂。借問酒家何処有?牧童遥指杏花村。  
これは唐代の詩人、杜牧の詩《清明》という詩。詩の中でいう清明の時節は、江南地方では雨と晴れが交互に来るような季節。今年の清明(西暦4月5日)もおそらく小雨が降るだろう。
  農暦  
  中国の伝統的な農暦は、陰暦と陽暦を一緒にした暦。地球が太陽を1周公転する期間を1年(古人は太陽が地球の周りを一周すると考えていた)とし、1年は約365.25日。1年を24等分したのが、いわゆる24節気で、立春から順に雨水・・春分・清明・谷雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒となる。月の満ち欠けの1周期が1ヶ月で、1ヶ月は約29.5日、1年は12ヶ月なので合計354日になる。それに閏月を設けることで、農暦1年間の日数と、陽暦1年の日数の差異を埋めていた。
我々の言う節日(祝日)は、本来1年を24に分けて定められた節気の日を指していたが、後に3月8日の婦女節や、6月1日の児童節、10月1日の国慶節など、特別に定められた日を指すようになった。ちなみに「節」という字の本来の意味は草木。この節がはっきりと分かる、竹やさとうきびのような植物の、葉のついている部分、即ち「ふし」を指す言葉だった。
 
  お墓参り  
 
24節気の中でも重要な節日の1つである清明は、一般に農暦の3月にある。《月令72候集解》の解釈によると、「清明・・・この時期にはあらゆる物を清め、良くする」これが「清明」という言葉の古人の解釈である。
はるか昔に清明は祖先を祀る日、墓参りに行く日と定められた。北宋の首都?京(開封市)の風俗を記した《東京夢華録――清明説》に次のようにある。「この日は城内の人々が皆城外に出て、それぞれの祖先の墓に行き、墓を清掃し、お供え物をして祀る。ゆえに清明節のことを古代は『鬼節』とも言った。」(訳者注:中国語の「鬼」には「死者」や「亡霊」という意味がある)
清明に墓参りをする習慣の由来にはいくつかの説があるが、有力説とされているのは、春秋時代(紀元前770〜476年)の介之推の故事だ。
晋の大臣だった介之推は晋の文公に従い、十数年も放浪生活を送っていた。晋の文公が復位し、功臣に褒賞を与える際、謙虚な人柄だった介之推は、自分からその功績を誇示せず、文公も多忙のあまりうっかり彼への褒賞を忘れてしまった。何も褒褒賞を忘れてしまった。何も褒賞がないのを不満に思った介之推は、老いた母を背負って綿上山の奥深くにある林の中で隠居生活を始めた。均等に褒美を与えなかったことが原因だと知った文公は、すぐに介の家へ人をやり、下山を勧めたが、介は下山を拒絶。「山に火を放てば介之推は下山するだろう」と、文公は火を放たせたが、介之推はあくまで下山を拒み、そのまま焼死してしまった。自分の過失で介を死なせてしまった文公は深く反省し、毎年介之推の命日には山に登って墓参りをするようになった。この命日がちょうど清明の日だったため、後人もこの故事に倣って清明に墓参りをし、その習慣が今日まで続いている、とされている。
古代中国の人々は風習の始まりを歴代の帝王に関連付けることを好んだ。清明の時期は冬に終わりを告げ、芽吹く季節であり、この爽やかな季節に祖先の墓の周りの草むしりをし、土を盛りなおし、祈りを捧げることで祖先を重んじているという意思表示をしているにすぎず、介之推の故事に倣ったとは言いがたいと筆者は考える。
※黄経・・・天球上の太陽の位置を示すために設定されている度数
  上海の「草甕焼き」
 
  墓参りの必須アイテムと言えばお線香とろうそくだが、「焼草甕」も必ず携帯するのがかつての上海の風習だった。甕とは陶磁器の壷の1つ。「老酒甕」と呼ばれる酒の貯蔵に用いられる容器は、江南地方と上海の酒屋で今でも目にすることができる。
かつての中国は銀本位制をとっており、貨幣の主体は白銀で、銅銭がその下の貨幣だった。銭荘(私営の金融機関)は、貯蓄業務は行なわなかったので、裕福な民間家庭は銀子をこうした甕の中に入れ、それを地中に埋めて盗難に備えていた。
中国人はずっと、陰と陽の世界はつなげられる、つなげるには物を燃やすのが一番簡単だと考えていた。陽の世界の物を燃やせば、ゆらゆらと立ち上った煙が陰の世界へと届く。ゆえに人々は紙を銅銭のように切って作った紙銭と、錫の箔を銀元宝に似せて作った長錠を用意し、先祖を祀る時に陰の世界に住む人々(死者)が使えるようにとこれらを燃やして陰の世界へ送り届けた。
銀元宝を蓄える甕に似せて、稲わらで作った「草甕」に、紙銭と長錠を満杯に入れ、清明節の墓参りの際に墓の前で甕ごと燃やすことで、祖先に大金を送るという気持ちを表していた。
上海一帯では1930年代にこの風習が廃れてしまい、今日の上海人の殆どは「草甕」がどういうものかを知らない。だが1980年代以降、南匯沿海地方を中心に草甕焼きが再び行なわれるようになった。
 
 

 
   
  写真説明  
  1. 上海松江地区の草甕屋の様子
2. 紙銭を作る風景
 
  作者紹介  
  薛理勇  Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」「閑話上海」「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。