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100年前の流行
蘇州河の正式名称は呉淞江という。1840年以降、上海にやって来た外国人たちが、蘇州へ通じるこの川を「SOOCHOW CREEK」と手紙や本に記し、中国人がそれを蘇州河と訳したことから蘇州河という名が生まれた。だが呉淞江全体ではなく、上海市内に流れる部分だけを蘇州河と呼び、郊外のそれは依然として呉淞江のままだ。外白渡橋はこの蘇州河に最初に渡された橋である。
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ウィリス・ブリッジ |
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上海が対外開放されたのは1843年。1845年にはイギリスが他国に先んじて蘇州河南岸の外灘に租界を、1848年には蘇州河北岸にアメリカが租界を形成した。租界に暮らす外国人たちの数が増え続ける一方で、蘇州河を渡る手段は小さい渡し舟のみ。危険だし時間もかかる、という不満の声が日々高まっていった。1854年、ウィリスという英国人が「威尓斯蘇州河橋梁建設公司 SOOCHOW CREEK BRI
DGE CO.,」を設立し、工部局に蘇州河への橋梁敷設を申請した。上海道主は英国領事に、「蘇州河への橋梁敷設で、正常な水上交通に影響を及ぼすようなら橋梁を撤去する」と工部局へ伝えるよう依頼。その条件を呑んだ形で1856年、450フィートの木造の吊り橋が完成した。まだ開港後10数年しか経っていない時期に建立された吊り橋は、技術面・資金面ともに不足していたものの、水上交通を妨害しないように、船が通る時には上に開くようになっていた。この橋梁敷設は公共機関ではなく私人が行ったため、外国人、中国人にかかわらず一律5文の通行料を徴収した。この橋を居留外国人たちはWILLS BRIDGEと呼び、中国人はこの橋が「外 渡」という渡し舟の乗り口にできたことから外 渡橋と名づけた。その後、「 」と「白」の中国語の音は似ているため、外白渡橋と書かれるようになった。 |
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ガーデン・ブリッジ |
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ウィリス・ブリッジは、私営企業が低コスト、低技術で敷いた橋のため、竣工から数年経つ頃には劣化が激しく、橋全体が傾いた危険な状態になった。きちんと修理をし、橋を安全に利用できるようにしてほしいと、各方面から工部局への訴えは絶えず、工部局も数度にわたって威尓斯公司に修理を命じたものの、出資を惜しむ公司は修理に着手しなかった。1874年、工部局が威尓斯公司と交わした20年の契約が満了になり、契約更新を断った工部局はすぐさま改築を始め、翌年再び車の通行を可能にした。
この改築の同時期、蘇州河と黄浦江の合流地点に外灘花園が建てられたため、GARDEN BRIDGE(花園橋)と改称した。市政府の出資なので、通行料も無料になった。各方面の技術や能力が大幅に向上したこの年に改築されたガーデン・ブリッジは、高度が上げられ、蘇州河を運行する船はマストを下げるだけで橋の下を通行できるようになった。1906年に撤去されるまでの約30年、この木造の橋はしっかりと人々を通し続けていた。
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目元のおしゃれ |
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こうしたスカーフや、カバンなど、女性が色を重要視する装飾品のほか、眼鏡も上海の女性たちの流行アイテムの一つになった。古代中国では、「女性は無学であるほどいい」というのが道徳的な基準のひとつだった。視力を矯正する眼鏡は明代の頃にはすでに中国に伝わっていたが、近視の女性は殆どおらず、もっぱら眼鏡をかけるのは男性だけであった。だが近代に入り、洋学堂に入学し、勉強する女性の姿が見え始め、聡明な女性が重んじられるようになると、「女学生スタイル」のファッションが流行し始めた。女学生スタイルの必須アイテムは鼻梁の上にある金縁の眼鏡。このファッションは当初、高級妓院でのみ見られた。ごくわずかながら、教育を受けた女性が妓院で芸妓をしていたからである。その後、一般社会にも広がり、女性たちは伊達眼鏡やサングラスもかけるようになった。
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写真説明 |
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1. 上海女性にも人気のスカーフ。
2. 冬に必要なミトンは女性に喜ばれた。
3. 眼鏡とサングラスも流行になった。 |
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作者紹介 |
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薛理勇 Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。 |
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