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「三寸金蓮」〜小さいほど素敵な足〜
かつて、中国の様々な風習や文化が日本へと伝えられたことは言うまでもない。だがなぜ纏足は日本に浸透しなかったのだろうか。そもそも纏足とはなぜ始められ、なぜ廃れたのだろう。今月は纏足の歴史を紹介する。 |
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後宮から始まった纏足 |
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古代中国の女性が纏足をし始めたのは、
南唐皇帝(961〜975年在位)の李后主の時代と言われている。彼には 娘という寵妃がいた。踊りに長け、足がすらりと長く、華奢で愛くるしかった 娘は布で自分の足を縛り、新月のような小さな足にした。宮廷内の他の女性たちも皇帝の寵愛を受けようと、
娘の纏足を真似し始め、さらにこの習慣が宮廷の外へと伝わり、宋代以降の頃には急激に流行り、女性美の条件となった。
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教会女校と天足 |
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上海開港後、まもなく上海にやってきた西洋人たちにとって、中国人女性が纏足をすることがどうにも理解できず、また医学的な角度からも、纏足は女性の体と心の健康を損なうとして、天足(自然のままの足)を提唱
する動きが西洋の教会学校から始まった。
中国では、裕福な家庭や知的レベルの高い家庭に生まれた女性ほど、一般的な家庭よりも封建制度の圧迫や制約を受けていた。小さな足は行動がしにくく、貧しい家庭では家事やその他の労働(農作業や水汲みなど)も女性が担当していたため、貧しい家庭の主は纏足の習慣をあまり重要視せず、纏足をさせない家庭もあった。
1850年、米国キリスト教会が現在の方斜路に裨文女校(Eligah School for Girls)を開校した。裕福な家庭は自分の娘を外国教会の学校に進学させることに拒絶反応を示したため、開校間もない頃の学生の大半は、貧しい家庭の娘だった。同校は学生に対し、纏足してある脚はすぐに纏足を中止(放足)し、纏足をしたことのない学生も今後纏足を行ってはならない、と規定した。
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天足会と天足 |
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上海開港から数年、外国人居留民の数は増加の一途をたどる。彼ら外国人居留民は纏足は中国漢民族に当たり前の行為だが、満州族の女性は逆に纏足はしていない、ということを知った。当時の統治者、西太后も纏足に反対し、天足を提唱。1880年代中期、上海で布教活動をしている伝道師の妻たち数人が立ち上がり、「天足会」を発足。彼女たちの努力が実を結び、会員は日増しに増え、いつしか著名な学者や外交官、伝道師、商売人も天足会に入り、彼らの参加によって、会の活動経費に困ることはなくなった。
1895年、西太后生誕50年を祝う式典が北京で盛大に開かれ、伝道師や外交官夫人という身分の上海の天足会の会員たち数人も式典に招待された。会員は時機を見て皇太后と直接会話し、上海天足会発足後の活動状況や発展ぶりなどを説明し、天足は女性の体や心をよくする効果があり、社会発展にもつながる、と語った。西太后自身も天足であり、漢民族女性の纏足行為に反対していたので、天足会の活動を大いに賞賛したばかりか、天足会の活動資金にあてるように、と現金を引き出すように命じた。この出来事以降、天足会は全国的な女性解放組織として動くようになった。
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纏足からの解放
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封建的な中国では、女性は社会的な活動に参加できず、公共の場所に行くことにも制限があった。だが西洋人は社交場に妻を連れて行くのが当たり前だ。この習慣は中国の官吏たちを非常に困らせた。彼らの妻はみな纏足しており、踊ることはもちろん、歩くのも困難なのだ。仕方なく彼らは若い妻たちの小さな足に大きな靴を履かせ、天足を装わせて社交場に出席していた。
上海で紡織業が発展し始めた19世紀末、あちこちの紡織工場が大人数の女工を募集した。だが「三寸金蓮」の彼女たちは仕事をするにも、出勤にも大変な労力を要してしまう。家計を助けるために、仕事を続けるために、纏足を止め、放足する女性の姿があちこちに見られ始めた。不完全な統計だが、清朝末期の上海で、娘に纏足をさせている家庭は全体の50%に減り、放足も増加し続けている。
1912年、中華民国が建国し、《禁止纏足令》が発布されてからは、漢民族女性の纏足習慣は事実上終わりを告げた。だが現在の中国人でも女性の足は小さいほうがよいとする意識が根強く残っている。
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写真説明 |
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1. 清代の絵から分かる纏足した女性達の姿。
2. 纏足した女性の小足靴。
3. 普通サイズの靴。 |
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作者紹介 |
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薛理勇 Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。 |
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