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上海にあった博物館(上)
主に歴史・芸術・科学の三つの分野に大別される博物館。中国の博物館の歴史は、その定義に忠実に言えば、近代上海にできたのが始まりである。 |
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徐家匯と震旦博物館 |
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上海の対外開港(1843年)から数年後、フランス天主教が上海市西南部の徐家匯に教会を建立。神父たちはキリストの教えを伝えると同時に、中国の歴史的文化財や鉱物のサンプル、生物標本などの収集と中国の自然と歴史の研究を積極的に行い、数年間である程度の数が整った。1868年、徐家匯教会のD・ヒュード牧師が、教区内に自然歴史博物館を建立。市民たちはここを徐家匯博物館と呼んだ。この博物館が、外国人が中国に建てた最初の博物館であり、中国に登場した、真の意味での博物館である。
徐家匯博物館は収蔵品の収集や保管・研究に力を注ぎ続け、次第にその所蔵品の量や質が上がり、種類も豊富になった。1883年、同博物館は正式に信徒に対し開放され、一般市民も予約をすれば観覧可能になった。一般開放時間は毎日午後1時から5時まで、入場料は無料。1909年に発行された《上海指南》によると、同博物館はすでに上海の観光スポットのひとつであり、中国の一般市民にもっとキリスト教を身近に感じさせるために大きな役割を果たしていたようである。
数十年後、博物館の所蔵品数は更に増加したために、教会が空いている部屋を利用して臨時的な展覧室にするなどして対応したものの、管理や観覧に不便と混乱を招くようになっていた。
1929年、教会は上海震旦大学と復旦大学の創始者、馬相伯から多額の寄付を受け、フランス租界内の呂班路(現・重慶南路)に震旦大学と付属中学の校舎(現・上海第二医学院)を建立。さらにその校区内に博物館を建て、徐家匯博物館を移転させた。この新しい博物館は震旦博物館と呼ばれた。
1933年、震旦博物館が正式に開館。毎週月・水・金・土の午後2時から5時まで一般開放した。入場券は1枚2角。貴重な動植物の標本が多くある博物館に、いつも大勢の人々が詰めかけ、博物館は大いに繁盛した。1949年に閉鎖された後は数十年間にわたり、上海昆虫研究所として活用されていた。重慶南路225号。 |
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亜洲文会博物院 |
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1857年、外国人居留民が上海文理学会(Shanghai Literary and Scientific Society)を創立。米国の伝道師で、宋慶齢の母、倪桂珍が通ったことで知られる裨文女学校の創始者、E・ブリッドマンや、上海仁済医院の創始者、W・ロックハット、《中国在語言方面的地位》や《中国仏教》《訪問蘇州的太平軍》などの著者であり、中国通のJ・エドキンスなど錚々たる人物が会員だった。成立の翌年、同会は英国皇家亜洲文会の加入が許可され、「亜洲文会北中国分会と改名。その役割と地位は香港にあった「亜洲文会中国分会」をしのいでいた。
同会が建てた亜洲文会博物院もまた、自然と歴史の博物館で、展示品を充実されるために、積極的に外国人居留民たちから寄付を募ったために、同院に展示される歴史的文化財、特に上海の文化財は種類が豊富だった。
1930年代、すでに竣工から69年も経った同会博物院は老朽化し、規模も手狭だったため、同会は再建を決定。新しい博物館は1933年に完成し、同年11月15日に正式にオープンした。デザインと施工を担当したのは英商公和洋行で、鉄筋コンクリートとレンガを使った5階建ての、アールデコ風のデザイン。だが一階の門や、その両側の八角形の窓、そして最上階の青銅器の装飾、石で作った一対の獅子などの装飾は中国風で、同館の展示品は中国の文化財がメインだということを表現していた。同館があった虎丘路は、1943年頃には博物館路と呼ばれていた。
1944年の上海開放前夜、同博物院にあった収蔵品や資料は、一部は盗まれ国外へと渡ったが、大半は中国の税関に保管され、1956年、新たに建てられた上海博物館・上海自然博物館と上海図書館にそれぞれ分配された。そしてこれら文化財や資料は、三館を運営していく上での礎になった。 |
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写真説明 |
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1 震旦博物館 2 元・華商紗布交易所、現在は上海自然博物館 3 虎丘路亜洲文会博物院
4 震旦博物館外観の装飾 |
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作者紹介 |
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薛理勇 Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾趣」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。 |
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