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宋靄齢と孔祥煕
今月は宋家三姉妹の長女、靄齢を紹介しよう。1890年、虹口の老宅里の家に生まれた彼女は、中国の一般家庭と同様に、両親の寵愛を受けられず、一家の長女としての責任ばかりが彼女の肩に乗しかかった。 |
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聡明な長女、宋靄齢 |
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米国人作家、スターリング・シーグレーブが著書『宋王朝』で、靄齢について次のように記している。「彼女(宋靄齢)の容姿は人並み、ふくよかな体型は切り株のようで、とてもお転婆だ。だが非常に聡明で、頭が切れる。チャーリー・ソウ(宋嘉樹)はどこに行くにも彼女を同伴し、印刷工場や小麦粉加工工場、タバコ工場、紡織工場などを視察させた。チャーリーは靄齢にこの上海という街が持つ、国際都市という外見の下に弱肉強食の姿を解らせようとしていたのだ。この世界を自分の目で見たことは、靄齢の天性を大いに磨いた。」
1897年、宋靄齢は父親が牧師を勤める教会の女子学校、中西女書塾に入学。先生に愛され、同級生に慕われるよき学生として勉学に励んだ。1904年、父、チャーリーが孫文について革命にその身を投じたため、靄齢にも清政府から逮捕状が出され、日本に亡命。その年、靄齢は父と親友のアメリカ人宣教師ウィリアム・バークに連れられ渡米し、ジョージア州にあるウエスレイアン大学に留学した。1909年、文学学士を取得し、翌1910年に上海に戻り、1912年4月には孫文の秘書になった。孫文が袁世凱との戦いに敗れた二次革命の後、靄齢は孫文と共に日本へ亡命し、そこで孔祥煕と知り合った。
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商才に恵まれた孔祥煕の誕生 |
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孔祥煕は1880年に山西省太谷に生まれた。彼が3歳の時に母が亡くなり、父子家庭に育った。幼少時は体が弱かった彼が米国の教会病院で治療を受けたことで、親子は敬虔なクリスチャンになる。孔祥煕は賢く勤勉で、通州協和書院(燕京大学の前身)に合格。更に教会の推薦で米国留学をはたし、エール大学を卒業した。
1900年、中国北方で義和団運動が起こり、その事後処理の最終議定書、辛丑条約(北京議定書)が調印された。条約は中国が各国に白銀4億5千万両を賠償することを規定。39年分割払いの年利四厘、合計支払額は約9億8千2百万両にもなる。この額は当時清朝政府の10年分の財政収入に相当する天文学的なものである。この賠償の規定は「庚子賠款」とも呼ばれる。賠償履行間もなく、米国政府は自国が得る賠償金を中国の文化教育発展にあてることを定めた。1907年、孔祥煕が母校エール大学のサポートで、故郷山西省太谷に銘賢中学を創始し、初代校長に就任した。
辛亥革命が起こると、孔祥煕は山西学生軍を組成し、自ら司令として立ち上がったが、すぐにこの学生軍は閻錫山に吸収される。二次革命の後、孔祥煕は北洋政府の追手から逃れるため日本に渡り、東京にある中国YMCAの幹事を務めた。米国滞在中に面識があった孫文と孔祥煕は、日本でその関係が更に密なものになった。孫文の秘書をしていた宋靄齢はこの時孔祥煕と知り合う。共に中国に生まれ、米国留学経験があり、極めて似通った経験と人生を歩んできた若者たちが恋に落ちるのに時間はさほどかからなかった。1914年、孔祥煕と宋靄齢は結婚。それからほどなく帰国し、上海に居を構えた。 |
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孔・宋夫妻の新居 |
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《民国二十四年上海年鑑*名人録》に「宋靄齢女士 上海人。孔祥煕夫人。西愛咸斯路383号に住む。」「西愛咸斯路383号は今日の永嘉路383号」とある。
孔祥煕が上海にいる間の住宅環境について、孔祥煕官邸秘書処秘書、中央銀行秘書処処長、四行聯合 事処総処秘書長、行政院参事を歴任した譚光が、《私の知っている孔祥煕》(中国文史出版社《孔祥煕その人その事》より)に記していることによると、孔祥煕は、1915年に銀1万6千両で西愛咸斯路に家を建てた。同年、亜爾培路(陜西南路近く)にある、ドイツ人が建てた一軒家も購入し、1917年に転売。3万両余りの利益を得た。更に福開森路(現・武康路)の黄克強が住んでいた住宅も購入。売却時に6万5千両を得て、西愛咸斯路に再び不動産を購入した。1934年にはこの土地と家屋の値段は60万元にまではねあがっており、約20年でその価値は30倍にまで膨らんだ。
孔祥煕の息子、孔令侃と聖約翰大学で共に学んだ 鐸が、《孔令侃と孔公館 事処見聞》の中で次のように記している。
「1933年秋、入学して1、2ヵ月が経った頃、孔令侃の家に遊びに行ったことがあります。旧フランス租界西愛咸斯路383号〜385号です。383号地に孔祥煕氏の住宅、385号地は財政部上海駐在事務所があって、塀で区切られてはいるものの、門があって行き来できるようになっていました。383号地には3階建ての大きな母屋と2階建ての離れの2軒が建っていて、広々とした庭園が表にあり、裏には駐車場と裏庭がありました。小孔(孔令侃)と彼の弟は当時母屋の3階に住んでいて、ご両親と妹の部屋は2階に。地下室には衛兵が常備していました。離れと母屋は2階に連絡通路があり、図書館やビリヤード室、書斎、休憩室などが2階に、管理人の姚文凱の事務所と応接間、文書受付と伝達室がありました。」
孔祥煕と宋靄齢夫妻は1915年、永嘉路383号の土地を1万6千両で購入。後に隣の385号の土地も購入している。383号地は9千6百平方メートルあり、ここにレンガと木材の混合造りの、母屋と離れの2棟を建てた。母屋は南を正面にし、広々とした庭園が目の前に広がる。中軸線を中心に対称にデザインされており、1階には庭に出っ張った半円形のルーフがあり、その上は主寝室につながるバルコニーが設けられている。屋根は伝統的な英国風切妻屋根で「老虎窓」を、南端には小さなベランダを設けた。3階は2人の息子の寝室。紅瓦と白い壁の対比は目にも鮮やかで、軽やかなイメージを抱く外観である。
1937年、抗日戦争が勃発すると孔祥煕は政府と共に内地に移った。1941年の太平洋戦争開始後、同家屋は日系の恒産株式会社に接収されたが、1945年に孔祥煕に返還された。1949年、官僚の資本は政府に没収されることになり、永嘉路の住宅も上海市房地局(不動産管理局)に接収監理された。1977年、上海電影訳制片廠に使用許可が与えられた。同廠は敷地内南側の空地に録音小屋と事務所を建てたが、孔祥煕が住んでいた家屋はそのまま保存された。現在この建物は茶館として利用されている。 |
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写真説明 |
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1 三姉妹の青年時代(左:長女の靄齢、中:次女の慶齢、右:美齢)
2 1917年の家族写真(前2行目の左は靄齢、右は慶齢、右後は美齢)
3 孔・宋夫妻の旧居 |
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作者紹介 |
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薛理勇 Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾理」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。 |
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