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宋美齢と上海
宋美齢は宋氏三姉妹の中の一番末の妹で、姉妹中で一番反抗的な子だった。慶齢の反抗は父に背いて孫文に嫁すというものだったが、美齢の反抗はキリスト教の教義に背いて妻のいる蒋介石に嫁すというものであった。
  少女時代の宋美齢  
  「宋氏三姉妹」の一番下の妹、美齢は2003年、アメリカの自宅で死去。享年106歳の大往生だった。古代中国では百歳の老人を「人瑞(人間祥瑞)」と称する。宋美齢も中国で最高の地位にいた人瑞の一人だ。2人の姉と共に幼少時は虹口地区の東余杭路にあるアパートで生活していた。彼女の父、宋嘉樹は米国メソジスト監督協会の牧師だったため、美齢は自宅から10数キロはなれた雲南路・漢口路の、監理会中西女学校に進学。父親は彼女のために馬車を借り、毎日送迎していた。
宋嘉樹は反清活動家の孫文のサポートをしていたため、清政府から追われる身になり、娘たちを同級生で監督協会の牧師、ウィリアム・B・バークに託した。1907年、バークは姉妹を連れて渡米し、大学まで卒業させた。
宋慶齢の弟で美齢の兄、宋子文は上海虹口南潯路の聖芳済書院に学び、1912年、成績優秀者として米国に公費留学。米国で経済学修士の資格を取って1917年に帰国した。帰国後は漢萍煤鉄公司駐上海総 事処秘書の職に就き、ほどなく義兄・孫文のいる広州へ向かい、国民党の要職に就いた。1918年、宋嘉樹が逝去した際、親族の大半は海外にいたため、妻の宋倪桂はアパートで寂しく一人暮らしを送る羽目になった。それを心配した宋子文は1922年、公共租界の西摩路(現・陜西北路369号)に、庭付きの洋館を購入。この洋館は《申報》の黄式権編集長の不動産だったらしい。宋倪桂はこの洋館に引越し、同年に宋美齢が帰国し、姉や母と共にここで暮らした。
 
  蒋家と宋家の関係
  宋嘉樹は米国から帰国し、上海で米国メソジスト監督協会江蘇教区の司教、ヨン・ジョン・アレンの助手として働いた。嘉樹は虹口にあった監督協会景林堂を大切に思っていたようだ。1923年、昆山路に景林堂の新堂が落成。新堂には宋倪桂のための専用席が設けられ、美齢は毎週、母と共に礼拝にやってきた。
1927年、蒋介石を総司令官とする北伐軍が上海に進軍、まもなく南京国民政府成立が宣言された。上海は国内外の各種勢力が集中している場所だったため、蒋介石は西洋教育を受け、家庭環境や社会背景に恵まれた女性を秘書にしたいと強く求めた。景林堂の牧師、江長川がその要望を受け、大学卒業後、職に就かず家にいた宋美齢を推薦。まもなく美齢と蒋介石は互いに惹かれあうようになった。
当時、上海の知識人たちはそれぞれが受けた教育によって派閥があった。宋家は「欧米派」、蒋介石は「留日派」。しかも既に国民党で財政管理を牛耳っていた宋子文は、上海証券市場に紛れ込んでいた蒋介石を内心軽視し、さらに「宋家は敬虔なクリスチャンであり、一夫一婦制の教義を遵守している。だが蒋介石には毛氏という夫人がいる。蒋介石が美齢を妻にと望むなら、毛氏と離婚しなければならない。」と蒋介石を責めた。蒋介石は伝統を重んじる人間であり、配偶者に何の問題もないのに婚約破棄などは出来ない性格のため、この指摘にも離婚はせず、一方の宋美齢は独立心の強い性格で、兄を怒らせてもかまわない、と蒋介石に嫁ぐことを諦めようとせず、とうとう宋子文をしぶしぶこの結婚に同意させた。だがあくまでも結婚式はキリスト教の教えに従い、まず宗教に則った挙式を、その後で披露宴を行う、ということが蒋介石は承諾した。
蒋・宋両家の結婚式は1927年12月1日に行われた。蒋介石は景林堂の江長川牧師に、景林堂での司式を依頼したが、江牧師はこれを拒絶。「キリスト教徒は教義を遵守しなければいけません。あなたは奥様と婚約を解消もせずに宋さんと結婚しようとしている。これは重婚です、犯罪です。私に景林堂で重婚犯罪者の婚礼を司式せよと言うなんて、私を失業させようとでもお思いですか?」と激しく蒋介石を非難した。この言葉に蒋介石は言葉もなく、別の知人に手配を頼むしかなかった。
 
  大華飯店と愛廬  
  1927年12月1日、両家の結婚式は西摩路の宋家宅で行われた。司式者は中華キリスト教青年会全国協会総幹事の余日章。儀式が済むと今度は中国の伝統的婚礼式に則り、宋美齢の母、宋倪桂に跪拝した。その後、公共租界の戈登路(現・江寧路)にある大華飯店に場所を移し、盛大な披露宴を行った。
大華飯店はマジェスティック・ホールという英名を持つ。英国商人が、上海道署があった場所に建てた「洋務局」という租界内の渉外事務を専門に従事する機関の、3階建てのビルを改築したホテルだ。一階は部屋を全部取り払い、喫茶室とバー、休憩室のある大ホールにし、数百人が利用可能。ホテルの周囲には緑が敷き詰められていた。マジェスティック・ホールは1931年に取り壊され、現在、その場所には美L大戯院が建っている。この劇場の英名もマジェスティック。つまり旧ホテルの名をそのまま使用しているのである。
蒋介石は国民革命軍総司令という立場上、その住まいは南京に置いていた。だが上海は中国最大の都市であり、ここに居を構える必要性は高い。とは言え南京国民政府は設立間もなく、不動産を買うだけの資金は蒋介石にはなかった。仕方なく結婚後しばらくは、フランス租界の拉杜湾(現・襄陽南路)にある、商売人の友人に準備させた洋館に住んだ。その後、南京政府がどうしても上海に滞在しなければ執務が難しい政府官吏のために、現在の岳陽路・衡山路の間、東平路の両側の住宅を買い取った。蒋・宋夫妻の住居は現・東平路9号になった。これらフランス式の3棟の建物は、外壁を細卵石で装飾し、その四隅は歯飾りであしらわれている。南側の1階にはドーム型の部屋を、2階には縁側付きの部屋があった。東平路に面した壁に更に建て増しした2階建ての家屋は、蒋介石の護衛が使用していた公館である。
蒋介石と宋美齢は大変仲むつまじく、蒋介石はそれをアピールするためにも『愛廬』という名前を付け、さらに浙江で形のよい石を探させ、自ら記した『愛廬』の文字を篆刻し、庭園に立てさせた。
 
  写真説明
  1  蒋・宋の故居「愛廬」
2  蒋・宋両家の結婚式が行われた大華飯店
3  宋美齢(真ん中)と上海婦女代表
4  「愛廬」所在地東平路の平面図
 
  作者紹介
  薛理勇  Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾理」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。
 
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