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上海と宋慶齢
かの宋氏三姉妹はみな上海で生まれ、生活をし、仕事をし、たくさんの足跡を残した。今月は今でも残る彼女たちの史跡をたどってみよう。
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  幼少時代を過ごした虹口  
  中華人民共和国名誉主席、宋慶齢は一九八二年に北京で亡くなった。本人の意向で遺骨は先に亡くなった彼女の使用人・李燕娥と共に、宋慶齢両親の墓の前に埋葬された。
宋慶齢は上海生まれだが、上海のどこで生まれたのかは未だに知られていない。一九二七年に宋慶齢が独身時代に住んでいた公共租界の西摩河三百六十九号(現・陜西北路三百六十九号)の家が、彼女が誕生し、幼少時代を過ごした家だ、と旧万国公墓にある宋慶齢生平事跡展覧の従業員は言っている。だが、つい最近、日本の宋慶齢基金会の仁木富美子女史が送ってくださった、一九一三年に宋慶齢が日本宛に出した手紙二通を見ると、封筒の差出人の住所は「上海東有恒路六二八c」とある。
この住所は現在の虹口区東余杭路五百三十弄内にあるアパートで、現地の不動産登録管理所と上海市高級人民法院保管庫にそれぞれ保管されていた書類を調べたところ、ここは宋慶齢の両親が新婚当時に住んでいた家で、相続したのも宋慶齢の弟、宋子安だった。このことから、宋慶齢の生家はこの東有恒路の家だと推測できる。
 
  国文記念館と孫中山故居
  宋慶齢の父親は宋嘉樹(英名:チャーリー・ソウ)という。広東文昌(現・海南省文昌県)出身で、少年時代に渡米し、ヴァンダービルト大学神学院に入学した。一八八六年、米国メソジスト監督協会派遣の宣教師として上海にやってき、同教会の宣教師、林楽知(Young John Allen)の仕事を手伝いつつ、自らも宣教師として布教に努めた。
宋嘉樹は中国生まれだが、幼い頃から米国で教育を受けたため、当時の中国人、外国人から「外は黄色で中身は白いバナナ野郎」と蔑視され、特に多くの中国人からは「外人かぶれの鬼子」とさげすまれ、なかなか上海社会に受け入れられなかった。だが赴任二年目、彼は米国メソジスト教女性伝道師組合が起こした碑文女子学校の生徒、倪桂員と知り合い、その年結婚。東有恒路の住宅はこの結婚の際に購入したものである。
米国で教育を受けた宋嘉樹にとって、中国の封建制度と社会状況は不満の対象でしかなかったため、自然と彼は上海反清政府の過激分子の一人になった。一八九六年、孫文が李鴻章に改革提案の上書を準備するために上海滞在中、同郷人の鄭観応の紹介で宋嘉樹と知り合う。上海に知己がいなかった孫文は、共に西洋の教育を受けた宋嘉樹とすぐに親しくなり、同じ政治思想を持つ同士として交流し始めた。その後も上海滞在の折にはその殆どで宋嘉樹の家に宿泊している。この大いなる政治的抱負を持つ孫文の存在は、まだ若かった宋嘉樹に大きく影響している。
一九一五年、宋嘉樹が様々な壁を乗り越え、孫文に嫁した。この時のことを自著<<宋慶齢自述>>に「もし私が彼(孫文)のプロポーズに同意したと家族が知れば、絶対に強く反対するだろうと分かっていました。信仰上の理由から、離婚暦のある人に私が嫁ぐころには絶対に賛同できないのです」と記している。
孫文は中華民国の建国者だが、その生活は総統らしいものではなく、一つ所に落ち着かず、各地で日々を過ごした。一九一八年、上海旧フランス租界の莫利哀路(現・香山路七号)の住宅が孫文・宋慶齢夫妻に送られ、この家が彼らの上海での住居になった。一九二五年三月一二日に孫中山が北京で没した時も宋慶齢はこの家にいた。一九四六年、国民党が孫中山逝去二十一周年を記念し、香山路の住宅を「国文記念館」にすることを決定。宋慶齢も引越しに同意し、夫と共に長年住んだ家を離れた。一九四九年以降、国文記念館は孫文故居と改名し、一般開放されている。
 
  宋慶齢故居  
  住居を記念館にするために香山路の家を出た宋慶齢は、東平路一五号にある一戸建ての洋館に一時期住んだ。当時は抗日戦争終結間もない頃で、一九四一年に太平洋戦争が終結し、中国各地にいた米国人・英国人たちが上海に戻ってきたため、東平路の宋慶齢宅も居留民に返すことになった。住居がない彼女にたいし、国民党政府は林森中路の住宅(現・淮海中路一八〇三号)を調達し、宋慶齢はこの家に引越した。
この林森中路の家は二十世紀初頭にドイツ人商人が建てたものを言われる。一九一四年に始まった第一次世界大戦中、一九一七年に中国はドイツに対して正式に宣戦布告し、国際戦争の慣例に基づき、中国にいるドイツ人は「敵対国難民」とみなし、全て国外退去させたため、持ち主のドイツ人も帰国。その後、この家は費納煦(ビナッシュ)という英国人医師が住居兼診療所として買い取ったが、一九一四年一二月七日に太平洋戦争が勃発し、この英国人医師も日本軍に捕まって収容され、母国へ送還された。住宅は日本恒産株式会社が接収したが、住んでいた銀行家の米博泉が中国へのスパイ容疑で逮捕され、家屋財産は没収。そして、宋慶齢の住居になった。
宋慶齢国家名誉主席が逝去された後、この家は上海市重点文物保護単位に指定され、「上海宋慶齢故居」として一般開放されるようになった。敷地面積四千三百平方米、三階建ての洋館の建築面積は七百平米。館内は彼女の生前暮らしたのとほぼ同様に保存してある。
 
  宋慶齢陵園  
  冒頭に記したように、一九八一年八月二九日に宋慶齢が亡くなり、その遺骨は本人の希望に基づいて、上海万国公墓にある両親の前に埋葬された。万国公墓は一九〇九年に設けられた公墓で、「万国」の名が表するように、どの国籍をもってようが拒絶されることなく、何カ国もの人がこの墓地に埋葬された。一九一八年に宋嘉樹が、一九一三年には倪桂員が亡くなり、共に万国公墓に埋葬された後、宋氏・倪氏共同の墓(宋倪合葬墓)を宋氏の家族が新たに建てた。文化大革命時代に万国公墓はめちゃくちゃに破壊されたが、周恩来総理の指示で上海駐軍が万国公墓に入り整備したため、幸いにも合葬墓は徹底破壊を免れた。
この年、上海は万国公墓を宋慶齢陵園に改築し、万国公墓を併設した。陵園内には<<宋慶齢生平事跡陳列館>>があり、一般開放されている。
 
  写真説明
  1  万国公墓中の宋慶齢陵園
2  宋慶齢の墓地
3  淮海中路にある故居
4  独身時代に住んでいた陜西北路の故居
 
  作者紹介
  薛理勇  Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾理」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。
 
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