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銭荘と票号
上海に銀行ができる以前から、原始的かつシンプルな金融機関があった。これらを銭荘、票号と言う。
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  両替から生まれた銭荘  
  前号でも紹介したが、中国は長い間「銀本位制」を取り、白銀を貨幣の主体とし、その重さで貨幣価値を計算していた。白銀の価値は非常に高く、明代と清代初期には白銀数両で江浙一帯の1畝の土地が買え、白銀1両あれば数石(江南地方では1石=80キログラム)の穀物が手に入った。日常生活では高価な白銀ではなく、鋳造した銭、つまり銅銭が流通していた。通常白銀1枚は銅銭千五百文に相当する。白銀は軽くて携帯にも便利だが、高価なために使い勝手が悪く、銅銭は使い勝手はいいものの、携帯すると重い。また、両者の相場もその時々で上下したため、いつしか経済が発達した都市には白銀と銅銭を換金する店舗ができるようになった。その営業内容は世界中のあちこちに今でもあるEXCHANGE SHOPとほぼ一緒と考えてくれてよかろう。取扱う商品から、彼らは銭荘と呼ばれた。
昆曲の伝統的な演目の一つに 《十五貫》というものがある。明代末期から清代初期にかけて活躍した馮夢龍が著した《醒世恒言》の中の《十五貫戯言成巧禍》の一節を改編したものだ。ある男が故郷を出て旅をしている途中、彼が携帯していた十五貫(1貫で銅銭1千文)を狙って宿で寝ているところを襲われ、命を落すという話。当時の銅銭は100枚で500グラムほど。最も軽い宋代の銭ですら120枚で500グラムある。15貫と言えば銅銭1万5百枚だ。最低でも60キログラムはあっただろう。60キロもあるお金を担いで旅をする人など存在するのか?白銀に両替していたら数10両で事足りたのに、なぜ両替しなかったのか?このことから、この物語の当時はまだ両替店や銭荘がなかったと推測できる。
明正徳年間(1506〜1521)に編まれた《洞 記》の中に、《徐 遇仙女》という物語がある。徐は国庫を管理する一官吏。国庫に収められていた金の首飾りが彼の不手際で盗まれてしまう。仙女に「城の西、黄牛坊銭肆の中を探しなさい」と言われた徐だが、既に盗賊は銭庄で首飾りを現金に替え、逃亡してしまっていたという話。この話から明代正徳には中国の大都市に既に銭荘ができていたことが伺える。
 
  銭荘行の発展
  白銀は重さによって、銅銭は枚数で計算されることは既に述べた。銅の価格は本来安いものだが、貨幣として鋳造されてからはその価値は高まった。これに目をつけ、銅銭を私的に鋳造する者が急増し、政府による厳しい取締りが行われた。明代に入り、両替屋が登場してからは、店主が私利をむさぼろうと「洗銭(マネーロンダリング)」を行うようになったため、私造貨幣の取締りは銭荘の商売をもおびやかすことになった。
そこで銭荘たちは一地方の中である程度の規模になると、同業者同士で結託し、両替業務を一時停止させた。このことで流通貨幣が絶対的に不足し、物価が高騰して社会秩序が混乱する。明代万歴年間(1573年〜1619年)まで、中央政府は銭業官吏措置を取で、中央政府は銭業官吏措置を取る。すなわち「擇殷実忠厚有身家之人、保結登名、設主兌換官舗戸」を実施したのである。「宮舗戸」とは政府の批准を経て開業許可証を得た銭荘を指す。
銭荘が上海に出来たのは現在でもはっきりとは分かっていないが、オールド上海時代に上海銭業のドンと言われた秦潤卿氏(1920年上海銭業公会会長就任、1947年中華全国銭業同業公会理事長就任)がしばしば周りに言っていたことによると、清代雍正乾隆年間に上海で薪や炭を扱う商店を開いた紹興出身者がそのはしりという説がある。
彼はとても品行がよい、と周りの人々からの尊敬と信頼を寄せられていたそうだ。店の近所に住む老人は自分のお金を彼に預け、店主はその金を北洋行きの船商に一定の利息で貸し付けた。その利息分だけでかなりの利益を得られるようになったため、本業の薪炭販売は中止して、金の貸借専門に行うようになり、いつしか上海初の銭業者となった。
乾隆年間、今日の豫園の中に上海銭業公所が設立された。設立当初の会員数は50人だったが、20年後には80人にまで増加している。
 
  貨幣流通を促進させた匯劃荘  
  匯劃荘は個人が経営する銀行の名称だ。河が何本も集中することを意味する「匯」と、一つのものがいくつもに分散する「劃」という字から推測できるように、分散した金を集中させ、集中した金を分散させる場所である。古代、規模の大きな貿易は銀で決算されていた。東北地方は豆油や豆製品の原料である大豆の一大生産地で、清代の上海での大豆の年間消費量は1万トンあった。仮に東北産大豆が1石半両とすると、上海の商社は1万石の大豆に紋銀1千両を支払わなければならない。紋銀1千両をはるか東北地方まで持っていくのは非常にリスクが多いのは想像にたやすいだろう。だが上海の銭荘が東北の大豆市場の所在地に支店を設ける、あるいは現地の銭荘と業務提携をしておけば、商社は金を上海の銭荘に入れ、その銭荘が発行した銀票を現地の指定された銭荘に持って行き、現金が引き出すことが可能であり、この方法は安全かつ便利だ。こうした業務を扱う銭荘が一般に「匯劃荘」と呼ばれ、手形や銀票の取扱が業務の中で一番多かったので、「票号」とも呼ばれるようになった。
通常、匯劃荘が出す手形は「荘票」と呼ばれる。荘票はそれを振り出した銭荘もしくは全国各地の同荘と業務提携している票号から現金を引き出すことができるため、商売に便利だと歓迎された。上海は「申」と略されることもあり、上海にある票号も「申荘」、申荘が振り出す手形を「申荘票」と呼ばれた。各地から毎年高額の資金が流れこむ、中国最大の商業貿易都市、上海の申荘票を持っているということは、その手形に記されたのと同額の上海で使える現金を持っているということであるため、申荘票は最も信用できる手形とされていた。
銀荘と票号、銀行の違いは何だ?そう疑問を抱く人もいるだろう。銀荘と銀行は金融業のカテゴリーに入る。中国の銀荘は封建時代の農耕社会で誕生し、発展した原始的な金融業であり、銀行は資本主義商業社会で生まれ、発展した金融業だ。銀行の提供するサービスの最も基本的な概念とルールは二つある。一、銀行は預金者の資金を利用して業務を拡大し、信用を確立すること。二、預金者から委託された資金を運用すること。中国伝統の銀荘は前者の機能しか持たない反面、近代の銀行は既に両機能とも、特に二の機能を活発に利用していたのである。
 
  写真説明
  1  銀荘が発行する兌換券
2  銀荘匯票(手形)
3  銀荘股票(株券)
4  滬北銭業公所
 
  作者紹介
  薛理勇  Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾理」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。
 
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