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OLD SHANGHAI 12月号
紙鈔(紙幣)が完全に流通貨幣として確立するまで、中国も他の国と同様、銀本位制(Sliver Standard)、すなわち白銀を用いた貨幣制度を布いており、外国製の銀銭も用いていた。 |
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古代、純分が九五%以上の白銀を「足銀」と読んだ。足銀は溶かして鋳る際に表面に規則正しい筋ができるので、「紋銀」との別称がついたという説がある。交易をする上で、銀は重さで計算する。単位は両で、一両は十六分の一斤、約三一・二五グラム。よって銀を通貨として使用する場合、「銀両」という呼び方がよく使われるようにもなった。
白銀は価値が高いため、高額の取引には使われるが、民間の小額の交易では補助貨幣が使用された。補助貨幣には長期間、円形の中に方形の穴を開けた銅製の硬貨、銅元が使われた。銅元はその形状から「孔方兄」という俗称もあった。
銀両と銅元には固定の比率があった。清道光年間(一八二一〜一八五〇)までは、通常の比率は白銀一両が一五〇〇銅元だった。だが現在の為替レートと同様、時間や場所が変わり、市場の需要と供給のバランスも変わると、銀両と銅元の比率も微妙に変動していた。こうした比率の変動を、中国人は「行情」と言う。今日でも上海人は「今朝日幣的行情 能?」(今日の日本円のレートはどう?)などとこの単語を使っている。
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スペイン製銀元の「本洋」 |
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中国には銀を鋳造する機械がないので、自国で鋳造した銀貨を使う事がなく、清代中期まで銀は重さによってその価値を決めていた(国庫に納入する銀は一般に一枚五十両の元宝にし、後に規定の地方に送られていた)。明朝時代、当時のスペイン国王リチャード三世がメキシコを制圧し、メキシコの豊富な銀鉱脈を利用して、銀貨を大量に鋳造。南洋での貿易に使われたこのスペイン銀貨は、南洋貿易を通じて広東・福建に入り、清代初期には、近海貿易によって上海に入った。外洋から中国にやってきた銀貨は「銀洋」や「洋元」などと呼ばれるが、上海では「銀洋鈿」と言った。一九三〇年以降に紙幣が次第に主流通貨になり、「銀洋鈿」を使うこともなくなったが、上海人は今でもお金のことを「洋鈿」と言う。
銀貨は決まった純分、重量、図形があり、使い勝手もとてもよい。一八三〇年頃、上海の貿易業が銀洋鈿を取引の主体とすることを決めた。これはいかなる貿易・交易でも銀洋鈿で決算するということになり、このスペイン製銀貨は本洋(主要銀貨の意)になった。
銀貨は純銀で、一枚の重さは七銭二厘(約六十グラム)。取引において銀両も銀元の両方とも、重さによってその価値を決め、一銀元は〇・七二銀両だった。高額の取引は銀両で、小額のそれは銀元で決算し、需要と供給の変化と共に両者の為替は変動した。一般レートでは厘(百分の一両)の値で上下し、後に上海人は銀元のレートや価格を「洋厘」と呼ぶようになったが、「洋鈿」(鈿=硬貨)と発音が似ているため、現在の上海の若者はこの二つの違いをよくわかっていない。
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メキシコの鷹洋と中国銀貨 |
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一八二一年、メキシコはスペインの統治から独立し、メキシコ合衆国を建国。スペイン統治時代に鋳造された銀貨は鋳造停止になったため、上海で流通していた本洋の数も激減し、本洋の価格がどんどん上昇した。一八五〇年には上海本洋のレートはかつての二倍、すなわち一元が白銀一.五両に。こうした高騰で本洋は流通貨幣としての価値が下がり、本洋は事実上流通しなくなると共に、代わってその地位に着いたのがメキシコで利用されていた、スペイン人が残した技術と設備で鋳造された新銀貨である。この新銀貨は表に蛇を口にくわえた鷹が描かれているので「鷹洋」と呼ばれた。おそらく鷹の図案がとても複雑で、なおかつ鷹(ying)の発音から、英国で鋳造された貨幣だと勘違いされ、しばしば「英(ying)洋」と記された。その後長期間、鷹洋は中国の主要通貨として流通した。
多くの国家が銀本位制を実施し、銀貨を発行していた。その全ては銀の重量を統一化しており、鷹洋が中国に入ったときに各国の銀貨も少量ながら混じり、国内で流通するようになった。一八八〇年以降、中国の各省に次々と鋳幣局(造幣局)と造幣工場が出来、国産銀貨の鋳造と発行を開始した。だが純分が低く、使用できない銀貨も少なくなかった。中華民国成立(一九一二年)以降、民国政府は金融の管理とコントロールを強化すべく、袁世凱と孫文の塑像をモチーフにした銀貨が鋳造・発行された。袁世凱の図案は顔が大きいため「袁大頭」、孫文のはそれに比べて小さかったので「小頭」と呼ばれた。「大頭袁世凱、小頭孫中山」という民間に伝わる諺ある。
国民政府は「大頭」と「小頭」を強制的に発行し、国指定の貨幣にすることで鷹洋普及を抑制しようとしたが、上海や各都市の外国商社はそれに抵抗、あくまで鷹洋での取引を続けた。また、大頭と小頭の鋳造の出来は悪く、図案もシンプルで純分も低かった上に偽造貨幣も出回ったため、農民ですら鷹洋を扱いたがった。その後、政府は鷹洋を認めざるを得ず、「鷹洋を流通貨幣と認めるが、国家指定の貨幣は中国鋳銀幣とする。これは鷹洋と同様の価値があり、いかなるものも中国鋳銀幣の使用を拒絶してはならない」と公告を出した。 |
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銀元の価値 |
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一九三〇年まで、上海および全国に流通している主な貨幣は銀両、銀元、銅元の三種類だった。銀両は高額のため、庶民が使うことは少なく、銀元が小額の取引や市場などで一番よく使われた。銅元は補助貨幣で、一九二〇年から一九三〇年頃は、一元銀元は二千四百文銅元だった。
一九〇九年に出版された《上海指南》に、当時の物価が記載されている。その中から現在でも有名なレストラン「杏花楼」の料理の値段を抜粋して紹介する。
十元菜・・八大菜・八小碗・十六円菜・四熱葷・四点心・八宝飯・蓮子羹・杏仁茶・内用燕窩・排翅・挂炉鴨・白 魚(以下、八元・六元・四元・三元・二元・一元八角・一元五角・一元などランクに分けたコースがあり、その種類は非常に多いので、省略させていただく。)
上記によると、非常に珍しい海碗清湯魚翅でも二元二角、清湯燕窩一元、上海の名物料理、蝦子海参もたったの三角八分で食べることができた。
当時の物価はとても安かったのだが、庶民の収入も低く、紡織工場に勤める女性工員を例に挙げると、一ヶ月三十日、一日十時間労働で、一ヶ月の収入はたったの三・五元から四・五元。人力車の月収も六、八元しかなかった。
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写真説明 |
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1 上海の街角にある両替所
2 中国国産の銀貨「小頭孫中山」
3 清の咸豊時代の銅元 |
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作者紹介 |
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薛理勇 Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾理」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。 |
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