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OLD SHANGHAI 11月号
旧租界時代に上海に存在した会館と公所。会館は主に同一地方出身者の団体を、公所は同業者団体を指し、どちらも現在の同業組合に似たような意味合いを持っている。 |
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会館と公所は、一般的に故郷を離れて生活する同郷の者たちが交流し、トラブル解決や相互援助、救済などを目的に作られた団体のことを指す。かつて、中国では同じ地域の中で一種類、もしくは数種類からなる同業者を重視し、結束していたため、職業や地方によってその会館・公所の特徴も様々だった。
北京は元代以来、数百年の間帝都として栄えた。全国各地から人が集まり、科挙の試験を受けにやってくる人たちも少なくなかった。自然、北京の会館は各地方政府の北京事務所兼宿舎といった顔を持つようになる。例えば光緒年代に記された《重修京師安徽会館碑記》の中に、「会館には宦(官吏)が集まり、楽しむために京師がいる。同郷者と連絡を取り、交誼を場所でもある」「試験を受けに京に来たものたちは、各群・県の公館があればそこに身を寄せた」とある。上海は商業港町のため、上海にやって来た地d方の商人達も、利益を守ったり騙されたりしないよう、同郷で困っている人がいれば助けられるようにと会館公所を設立。こうした団体こそが本当の同郷者クラブと言えよう。 |
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海運と移民都市上海 |
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中国では昔から長江口を境界線にして北を「北洋」、南を「南洋」と呼ぶことがある。北洋は長江から北へ広がる広大な華北平原を指すのだが、数万年も前から黄河が運んできた泥と砂が北洋を数十里も広げ、延々と続く浅瀬を作った。この浅瀬は浅瀬用の船でさえも航路を熟知した船頭がいなければ通れないほど難度の高い航路。だが上海崇明が作った平底浅船はこうした北洋の運航に適しており、活躍。この船は“砂の海の間”を運行することから “沙船(ジャンク)”と呼ばれるようになった。
一方、長江の南側にある浙江、福建の海域には島や暗礁が多く、水深があって波も荒いため、沿海の通行や貿易をする際には、貨物は上海で深水船に積み替えなければならなかった。南から北上する貨物船も同様に積み替えが必要だったため、上海は南北海運の中継点・集散点としてにぎわうようになった。さらに上海は中国で最も人口が多く、物産が豊かな蘇南平原を背にしているため、河川網のある蘇南平原の各都市と同様、長江沿岸の各都市に通じるので、海禁令が解かれたが数年後には、上海港は元の姿を取り戻しつつあった。
水上運輸の増加と発展は上海の貿易促進と商業の発展につながり、遠近問わず各地から人々が上海へとやってきた。十九世紀中期になると、上海に住む地方出身者の数は上海の地元民をしのぐまでになり、人々は愛着を込めて上海を「移民都市」と呼ぶようになった。
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上海初の会館・・・商船会館 |
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沙船が最初に作られたのは、長江口の崇明島である。崇明島はかつて崇明沙(※)と呼ばれていたため、沙船の名前の由来は崇明沙で作られたからだ、という説もある。
需要とともに沙船を使った運送業者の数は徐々に増加。海禁令解除から三十年後の一七一五年には江蘇省の崇明・南通・上海の沙船運送業者たちが、互いの利益を守るために黄浦江岸の東馬家廠(現董家渡会館街)に“上海商船会館”を設立。これが上海に最初に誕生した会館である。商船会館は会館という名前ではあっても、実質は同業公所(同業者組合)だった。
中国では天后(福建や台湾などでは媽祖とも呼ばれる)を航海の女神と敬っているため、商船会館もメインホールに天后を祀る天后宮とし、その両端に海神の福山太尉 大神と成山驃騎将軍を、さらに大きくて凝った装飾の舞台を建立した。誕生から数十年もの間、商船会館は常に上海でも最大勢力の同業者団体として上海の市場を左右する立場にあったが、一八七〇年代に登場した、速度が速くコストも安く、安全な汽船が、瞬く間に中国沿海と長江の運輸市場を席巻。沙船は次第に使用されなくなり、二十世紀初頭にはほぼその姿を見ることはなくなった。現在、董家渡会館街には保護建築物に指定された商船会館の一部が保存されている。ちなみに、“会館街”という地名はご想像どおり商船会館に由来している。
※ 上海語では中州または海中に泥土で出来た島のことを「沙」と言う。例:長興沙・横沙・団結沙・九段沙など) |
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会館の仕事・・・葬儀 |
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一七一五年に商船会館が誕生してから上海が開港した一八四三年までに、上海には約二十余りの会館・公所が出来た。開港後、町の拡張と人口増加が爆発的に起こり、会館・公所の数も増加。不完全な統計では一九〇〇年に上海にあった会館・公所の数は約二百で、全国最多だった。主催者たちの出身地も広東・湖南・四川・湖北・山西・山東など、遠方の省市にまで及んでいた。
会館の主な創設目的は同郷者同士の交流だが、よく調べてみたら同郷者の葬儀問題を解決することが、会館職務の一つだったようだ。中国に「人生七十古来稀」という言葉がある。昔は中国人の平均寿命は短く、四十歳になると自分が入る棺の材料(喜板とも言う)を用意するという伝統的な慣習があった。そうすることで寿命が延びると信じられていたのである。農村の人々は喜板を客堂の上の閣楼(屋根裏部屋)に置いていたので日々の生活に支障はなかったが、都会の上海では農村よりも家が狭く、喜板をしまう場所がなかったために、会館が“丙所”という喜板保管場所を設けて同郷者たちに喜板保管のサービスを行っていた。資金に余裕がある会館は、さらに上海で土地を買い、墓地と義家を建てた。墓地は有償で、義家は上海で死んでしまったが葬儀ができない同郷者に無償で提供された。
また、中国には前述のほか、「落葉帰根」という言葉もある。落ち葉は根に帰る、つまり死んだ人は必ず自分の故郷の、先祖代代の墓に戻らなければならないという意味である。重い棺を数百里、時には数千里も離れた故郷へと運ぶのは容易なことではない。だが会館はこの重要かつ大変な仕事を引き受けていた。上海で最大規模を誇った寧波人の団体、四明公所を例にとると、一九〇〇年の統計では上海在住の寧波人は四十万人おり、毎年一万人以上が上海で亡くなっていたと推定できる。もしもそのうちの二十%の遺体が寧波への返送を希望していたとして、その数約二千体。膨大な数である。四明公所は非常に大きな「寄棺処」(棺保管場所)を持っており、既に蓋をし、釘が打たれた棺を暫時安置していた。さらに年に二回、汽船を借り切って、もし棺の数が多ければ、旅客用木造船も追加して、棺を寧波まで送り届けていた。
一九四九年以降、上海の会館・公所は閉鎖が続いた。一九五六年に制定された葬儀規定で、全市での火葬の実施と、いかなる理由においても遺体の上海からの持ち出しを禁止する旨が定められたことで、上海には火葬場が次々と誕生。かつての会館・公所の大半も、火葬場へと転進した。
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写真説明 |
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1 豫園は元会館と公所の集中地だった。
2 商船会館の舞台
3 商船会館のメインホール |
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作者紹介 |
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薛理勇 Xue Liyong
1982年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾理」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。 |
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