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OLD SHANGHAI  10月号
清朝宮廷を舞台にしたドラマの中でしばしば丐幇、鹽幇、漕幇などの言葉を耳にしたことがないだろうか。丐幇は乞食、鹽幇は塩売り、では漕幇とはどういうものなのだろうか?
漕幇から青幇へ  
  漕幇の由来と改正  
  漕と槽という字は、共に物の凹んだ部分を指す言葉だが、漕は溝や堀を指すのではなく、水上運輸を指すことが多い。古代、運輸されるものの大部分は食糧だったことから、「漕運」とは主に食糧を水上運輸することを指した。
元朝が大都(現・北京市)を都に定めた頃の米の主要産地は江南地域で、従来の政権が江南に対し、税として米を徴収していた。この税は漕米や漕糧、民間では皇糧と呼ばれた。江南各地の漕米は江蘇の太倉に集められた後、ジャンクに載せられ長江を出発。沿海を北上して運ばれたため、太倉は「巨大な米倉」と呼ばれていた。北送される皇糧の大半は官吏の給料だったため、現在でも公務員を「吃皇糧的(皇糧を食べる人たち)」と言う。
明代初頭、「海禁」政策が施行され、上海での運輸や貿易は厳しく取り締まられた。漕運も海運から河運へと姿を変えて清朝道光年間まで続く。漕運が順調に進むように政府は漕運使司と称する大管理チームを組成。また、漕運の船乗りたちによる運輸中の横領や横流しの防止のために、船幇同士が友好的な関係を保つようにし、官吏や軍隊の搾取に抵抗するため、彼らは秘密結社を結成した。この船乗りたちの結社が漕幇だ。記載によると、最初の秘密結社が誕生したのは安徽の安慶で、自称「安慶道友」あるいは「安慶幇」と言い、いつしか「青幇」と言われるようになった。つまり青幇は漕幇の別称だったのである。清代初頭になると漕運の船は六、七千隻、関係者の数は十万人以上にもなり、漕幇の存在も目に見えない大きな力として知られ、政府に対しても影響力をもつまでになった。
清朝廷は漕幇の存在について常に頭を悩ませ、問題視していたが、最終的に漕幇は漕運の安全性を大きく左右する存在と認識し、事が有利に運ぶようにと漕幇を買収した。清朝雍正三年(一七二五年)、雍正帝は寵臣田文鏡に命じ、漕幇が公的に組織を設立し、組員を募ることを許可。こうして漕幇も漕運の船乗りの地下組織から、公に出られる合法的な団体へと成長した。だが他の幇と取り分での衝突があり、官吏との矛盾や抗争は長い間続いた。こうしたエピソードを元に、清朝宮廷劇の編集者は多くの物語を編み出していったのである。
 
  漕幇の解体と近代青幇の誕生
  田文鏡は漕幇のトップ、翁岩(福庭)・銭堅(福斉)・潘清(清宇)が組員を募り、幇を結成した後、「清浄道徳・文成佛法・能仁智慧・本来自性・円明行理・大通無(無は悟とも書く)学(学は覚とも書く)」の二十四文字を幇の系譜とし、中国の伝統的な家系図の形式を用いることを定め、年功序列型の規律と厳しい処罰制度を設けた。
明代初頭から清朝中葉までの数百年で、大量の江南の漕米が運河を通って北京へと運ばれ続けたのだが、政府はこの大河の底をさらい、スムーズな流通を保つだけの力を持っていなかった。運河は次第に土砂が積もって狭く浅くなり、清代嘉定年間に至るころには北運河の閉塞は甚だしく、渇水期には小船ですら通過が難しいまでになった。大型船が通れなくなったために、江蘇巡撫の陶?奏が北方への食料輸送はジャンクを使うようにと通達し、これにより上海港はにぎわいを見せるようになったが、運河沿岸の数十万の船乗りたちが失業するという憂き目にあってしまった。清朝政府は一部の船乗りと舟を水帥として収容し、改編するのが精一杯で、大半の船乗りは上海・天津・武漢・南京・鎮江などの沿海・沿河都市を放浪したり、港で低賃金の肉体労働をしたり、町の卑賤に身を落としていた。漕幇はこうした状況にあって事実上は既に解散していたのだが、上海では「青幇」は別の組織として残り、成長していた。
一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、アヘンが中国人の心と体を大きく蝕むようになる。この状況を改善しなければと留学生たちが帰国、中国に未曾有の禁煙活動が起こった。一九〇七年、中国政府とアヘンの主要輸入国である英・米・仏・独・日・露など八カ国が《アヘン貿易禁止協定》を結び、アヘンの数量を毎年二五%の速度で減少させ、五年後にはアヘン輸入ゼロと規定した。一九〇九年、第一回万国禁煙大会を開催。ある記載によると、一九〇七年の上海のアヘン市価は白銀七両でアヘン一両だったのが、たった一年で約十三倍の白銀九十両にまで高騰。一般市民はアヘン撲滅を願っていたのだが、数人の政府官吏が巨額の利益に目がくらみ、地下に勢力を作り、アヘン密売を始めた。彼らは密売と流通に水上運輸が必要となり、組織としての機能が充分に働いていた青幇に目をつけた。青幇も政府と軍隊からの助成と協力を得たことで、アヘンで莫大な利益を得、上海の「三界四方」(華界・仏租界・公共租界の三界と、華界の中の南市と閘北)で瞬く間に発展と成長を続け、大勢力の地下組織になった。
 
  上海青幇の杜月笙  
  上海の青幇と言えば誰もが連想する名前が杜月笙(一八八八〜一九五一)という梟雄だ。彼は浦東の高橋出身で、一九〇三年、一六歳の時に黄浦江を渡り、一六鋪のくだもの屋の見習などをした後、青幇の陳世昌という、字を通という人物を兄と仰ぎ、自らも字を「悟」とつけた。次第に青幇の中で力をつけた杜月笙はその地位も高くなり、上海マフィアの三大ボスの一人に数えられるまでになった。一九二七年四月、杜月笙は中華共進会を結成し、蒋介石の四一二政変の策動に協力。南京国民政府誕生後は蒋介石から少将の肩書きを授かり、陸海空総司令部顧問、上海フランス租界華董を兼任した。
杜月笙は政界進出後、世間の青幇への悪印象を払拭しようと、青幇の改革に乗り出した。常に礼儀正しく、社会活動を行う際の衣服はきちっと乱れがないように、汚い言葉を使わないようになどと、徹底的に守らせた。一九三〇年、国民政府は《社団登記法》を発布。あらゆる民間社会団体は政府への届け出が必須となった。杜月笙は青幇を「恒社」の名義で登録し、活動も大幅に制限された。そして一九四九年まで元青幇の幹部クラスの多くが鎮圧され続け、青幇はその名前だけが記憶に残る存在となった。
 
  写真説明
  1  上海マフィア三大ボスの一人杜月笙。
2  杜家祠堂が落成された時の様子。
 
  作者紹介
  薛理勇  Xue Liyong
一九八二年に上海市歴史博物館に入り、上海史を研究。主な著書に「上海路名地名拾理」「閑話上海」
「上海老城廂史話」「上海掌故辞典」等。
 
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