普通ならここらへんで気を良くし二号店、三号店を出したりするのだろう。しかし、そうはいかないのが異色の経歴を持つ異能の人である。 レストランを続けているうちに「いち中華屋の親父」では一生を終わりたくないと感じ始めた氏は、うに言われぬ戸惑いの日々を過ごすようになる。中華料理屋という、いうなれば「3K」に近い仕事。夜遅くまで働き、帰宅する日々。無為に日々を過ごすうちにレストラン業にも嫌気がさしてきた。自分の仕事を過小評価してしまう、そんな自分や環境に憤りを感じていた。他にもっと何かがしたい。いまさらミュージシャンにも戻れない。 そんな状態のまま、他の事業にも何度か挑戦するうちに、資産も使い果たし生活に窮することになる
氏は「広東倶楽部」の経営を管理する妻を残し、単身で蘇州に渡った。蘇州では一足先に帰国していた件の元常連客の中国人が氏を待っていた。この蘇州人が、パートナー兼水先案内人となり、ここから氏と彼との二人三脚の日々が始まる。とにかく目にするもの全てが新鮮だった。日本で親戚知人からかき集めるようにして持って来た全財産五〇〇万円。その資金で現在のテナントの一階部分四〇〇m2を借り、レストランをスタート。店名は日本と同じく「広東倶楽部」 日本では人気店を経営していた経験があるとはいえ、中国ではまるで勝手が違う。オープンしてからの最初の五ヶ月は赤字続き。赤字は初期の投資額を上回った。目の前を歩いて行く人の流れを見ながら、氏は冷静に中国人に受ける店を研究した。メニューを替え、店名を替え、音楽を止めた。「天竺」の誕生である。そのうちに、人が人を呼ぶ形で人気が出始め、連日満員の日々が始まった。 四〇〇m2の店も二二四〇m2へ、更には同商業ビルの一F〜三Fまでを借り切り五一〇〇m2に拡大。しかし、繁栄の日々は長くは続かない。九九年ごろから蘇州市にも他の大型店の進出ラッシュが始まる。一軒ライバル店が現れるごとに、「天竺」の売上は五〇〇〇元下がった。それまで平均で一日に一二万元あった売上も徐々に下降線をたどる。このままでは先が無い。変化をしなければいけない・・・。