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上海竹内建筑装有限公司 竹内博さん
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バブル崩壊の辛酸なめ病魔も…七転び八起きで工務店業確立 |
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建設ラッシュが続く上海。建物の内装などを手がける建築業の需要も当然のことながら多い。そのビジネスチャンスに目を向けて成功している日本人起業家がいる。上海竹内建筑装有限公司の総経理・竹内博(五六歳)さんだ。 |
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■夫人に介抱受け再起の道 |
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成功とはいってもその裏には失敗もあった。工務店経営者を父に持つ竹内さんは、一九六〇年代後半からこの世界にはいる。そののち自らゼネコン経営を始め、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いであったという。しかしバブル崩壊のあおりを受け倒産。連れあいとも離れ、ものの見事に丸裸になった。九四年のことだった。
ずっと建築畑にいた竹内さんは、その後派遣会社を介し、建築会社で雇われ社長を務めるようになる。そして九七年、上海へ出向する機会を得た。
いざ蓋を開けてみると、上海での待遇は日に日に下がり、ついには現地採用並みの給料となっていた。これでは食べていけないと感じた竹内さんは、日本へ帰ることを決めた。
ところがその矢先、病魔が竹内さんを襲った。二〇〇〇年のことだった。手術、そして約二ヵ月の入院。病気の竹内さんを支えてくれたのが、今の奥さんである建麗さんだった。
彼女のためにも、上海で会社を興そう。そう決意した竹内さんが選んだのは、長年慣れ親しんだ建築業。建築でしか自分は食べていけない。そう思った。
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| 若い愛妻建麗さんと |
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| 資本金は五〇〇万元必要だった。もともと手元にあったのは派遣で稼いだ日本円で三〇〇万円。しかし入院費で二〇〇万円が消えていた。そのため奥さんの名義で会社を興し、銀行から借り入れて資金調達した。設立は〇〇年四月。次々と新しい建物ができている上海なら、仕事がたくさんあるにちがいない。銀行にもすぐに返済できるだろう。そんな見込みは独立後、すぐに外れていたことに気が付いた。 |
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■借り入れた資金も底つく |
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竹内さんの目からみたら仕事は確かにたくさんあった。しかし自分に仕事が入ってこなかった。ゼネコンに仕事をもら いに行くこともできた。直に会社対会社で仕事がしたかった。
全く仕事がもらえないまま日々が過ぎ、資金も底をついてきた。そのため、竹内さんがとった行動は日本への出稼ぎだった。こうして数ヵ月が過ぎた後、日本円での仕事であったが、上海事務所の内装の話をもらうことができた。上海での初仕事ができたのである。
次の仕事も見つかった。〇一年の春節(旧正月)前のことだ。受けた仕事は無錫のベアリング工場の床の工事。油まみれの床をまず中性洗剤できれいにし、下地をつくる必要があった。しかし下請けの業者が使ったのは中性洗剤ではなく酸だった。やってはいけないとすでに竹内さんが注意していたことであった。結果、ガスが発生し、製品であるベアリングをさびさせ、受注先に多大な損害を与えてしまった。こうして一気に一二万元の赤字を背負ってしまったのであった。
「ああ、俺の人生ってついてないんだなぁ」。心底思った瞬間だったという。 |
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■おごらず欲なく…業績上向く |
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赤字は月賦で返済した。かなりしんどかった。その返済に二年の月日を要した。とにかくまじめに、かゆいところに手が届くような仕事をやること??。そんな竹内さん仕事への姿勢からか、一度仕事が入り始めると、紹介でどんどん仕事が入るようになっていった。今では年間二〇〇万元を売り上げるようになった。 竹内さんにとって、上海でのビジネス成功の鍵は「人脈」だという。
「人と知り合いになって、おごらず一生懸命仕事をしていれば、だれかが助けてくれるんですよ。自分も親父のように、上海の工務店の社長で地道にやっていけたらいいなと」
将来のビジョンも明確だ。おごらず、欲なく、無理せずにきちんと受けた仕事をこなすこと。そして「奥さんと楽しく生活していければハッピーだよね」と語ってくれた。
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| オフィスで次の仕事の準備を練る竹内博さん |
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