上海歴史
「虹口娯楽街」---上海にいた日本人 Vol.94
上海の居留邦人のために最初に建てられた娯楽場は、1900年7月15日、北四川路の日本小学校の前に誕生し、多くの日本人に歓迎された。とは言え、造りは簡素で、その内容も取り立てて特徴はなかった。中国人記者の包天笑は『釧影楼回憶録』の中で、次のように記している。「虹口一帯で数軒の日本の芝居小屋が興行している。日本人は実に機転が利いており、上海の弄堂の2階建ての家屋を改築して3階建てにし、百二百の観衆も収容できるようにした」、「文路(文監師路)にある『東京席』という芝居小屋の役者は、東京からきた名優たちだそうだ。こういう小型の芝居小屋は実に楽しみ方が難しい。まず入ったらすぐに靴を脱がなくてはならない。幸い私はこのルールを知っていたので、破れた靴下は履かずに来た。次に畳の上でひざを曲げて座る。これには実に閉口した。芝居は音楽がなく、2本の竹の棒を叩き合わせて拍子をとりつつ、どうやら歌を口ずさんでいるような、いないような。」
虹口の居留邦人が増えるにつれ、呉淞路・海寧路・北四川路一帯は、日本式の劇場や映画館、バーやダンスホールなどの娯楽施設が集中する歓楽街へと発展した。その中の上海歌舞伎座(現・四川北路1800号、永安電影院)は、1924年に建立された日本式の劇場だ。建立当初は上海演芸館と呼ばれ、1階600席、2階に400席あり、ダンスホールも併設されていた。
東和劇場(現乍浦路341号、元解放劇場)の前身は、武昌路の東和活動写真館(大阪の辻源助創始)で、1936年に乍浦路に日本式の映画館・劇場を新築。設計は日本の建築家河野健六が担当した。ここは上海で唯一の日本映画常設館で、日活や松竹の作品を上映していた。
海寧路・北四川路の交差点東側には第2歌舞伎座(後に銀映座と改名)があり、日本中華劇場株式会社が扱う西洋映画のみを上映していた。この他に、現・乍浦路408号にあった威利大戯院は、日本占領時に「昭南劇場」と改名。現・北四川路1372号には虹口最大のダンスホールがあった。
樋口弘が『日本対華投資』の中で次のように娯楽街を描写している「日本の対華娯楽事業は、英国などのような豪華なホテル経営を中心とした享楽機関でも、大衆的な娯楽組織でもない。ただ日本人の居住地域に、遊郭の看板を掲げ、喫茶店でジャズを流し、ダンスホールを建てればいい。こうした店から賑やかな音楽と喧騒が聴こえてくる。これらは日本人が海外で発展させた一種の規律だと言えるだろう。」
ある日本人は、学生のころよく日曜の朝に母親に連れられ、四川北路の横浜橋付近にあった歌舞伎座で映画を見たことを覚えている。そこで彼が見た映画は『月桂樹下』(上原謙・田中絹代・高峰三枝子主演)や『白蛇伝』(長谷川一夫・入江たか子・山田五十鈴主演)、『男の花道』(長谷川一夫・古川ロッパ主演)、『孫悟空』(榎本健一主演)などだった。
当時、蘇州河大橋から靶子路(現・武進路)までの北四川路界隈は、遊郭や賭場が林立し、「神秘の街」と呼ばれるような場所で、日本式の遊郭はその一帯の主役だった。通行人がここを通りかかると、すっと人が寄ってきて、「先生、東洋堂子によって遊んで行かないかい」と声をかける。日本の遊郭は「狭くてガランとしていて、殆どは借りた一間に木の床と少しばかりの家具を置き、女中を1人雇っている。1間を2つに仕切って使う店もあるが、板ではなく、1枚の色布で仕切るだけだ。」
大抵の遊廓は客引きを雇っていて、中には人力車の車夫に路上で客引きをさせている店もあった。取引が成功したら謝礼をもらえ、報酬は代価の2割が一般的だった。
更に客寄せとして「行楽和菜」という趣向を凝らした日本風な遊びも考え出した。「店の外観は日本料理屋そのままで、竹のすだれがかかり、ゆったりとした音楽が流れ、旨そうな料理と酒の芳香が鼻をくすぐる。小さな和室が、思いがけず桃源郷のような別転地へと変貌する。部屋は普通と特別の2種類があり、特別室は4人以上じゃないと利用できないが、普通クラスに人数規定はない。個室で正統派和食が楽しめ、酒と肴で腹が満たされると、艶美な女性が来て枕を勧めてくれる。値段は高いが常連は大勢おり、ひっきりなしにのれんがくぐられている。」
虹口の居留邦人が増えるにつれ、呉淞路・海寧路・北四川路一帯は、日本式の劇場や映画館、バーやダンスホールなどの娯楽施設が集中する歓楽街へと発展した。その中の上海歌舞伎座(現・四川北路1800号、永安電影院)は、1924年に建立された日本式の劇場だ。建立当初は上海演芸館と呼ばれ、1階600席、2階に400席あり、ダンスホールも併設されていた。
東和劇場(現乍浦路341号、元解放劇場)の前身は、武昌路の東和活動写真館(大阪の辻源助創始)で、1936年に乍浦路に日本式の映画館・劇場を新築。設計は日本の建築家河野健六が担当した。ここは上海で唯一の日本映画常設館で、日活や松竹の作品を上映していた。
海寧路・北四川路の交差点東側には第2歌舞伎座(後に銀映座と改名)があり、日本中華劇場株式会社が扱う西洋映画のみを上映していた。この他に、現・乍浦路408号にあった威利大戯院は、日本占領時に「昭南劇場」と改名。現・北四川路1372号には虹口最大のダンスホールがあった。
樋口弘が『日本対華投資』の中で次のように娯楽街を描写している「日本の対華娯楽事業は、英国などのような豪華なホテル経営を中心とした享楽機関でも、大衆的な娯楽組織でもない。ただ日本人の居住地域に、遊郭の看板を掲げ、喫茶店でジャズを流し、ダンスホールを建てればいい。こうした店から賑やかな音楽と喧騒が聴こえてくる。これらは日本人が海外で発展させた一種の規律だと言えるだろう。」
ある日本人は、学生のころよく日曜の朝に母親に連れられ、四川北路の横浜橋付近にあった歌舞伎座で映画を見たことを覚えている。そこで彼が見た映画は『月桂樹下』(上原謙・田中絹代・高峰三枝子主演)や『白蛇伝』(長谷川一夫・入江たか子・山田五十鈴主演)、『男の花道』(長谷川一夫・古川ロッパ主演)、『孫悟空』(榎本健一主演)などだった。
当時、蘇州河大橋から靶子路(現・武進路)までの北四川路界隈は、遊郭や賭場が林立し、「神秘の街」と呼ばれるような場所で、日本式の遊郭はその一帯の主役だった。通行人がここを通りかかると、すっと人が寄ってきて、「先生、東洋堂子によって遊んで行かないかい」と声をかける。日本の遊郭は「狭くてガランとしていて、殆どは借りた一間に木の床と少しばかりの家具を置き、女中を1人雇っている。1間を2つに仕切って使う店もあるが、板ではなく、1枚の色布で仕切るだけだ。」
大抵の遊廓は客引きを雇っていて、中には人力車の車夫に路上で客引きをさせている店もあった。取引が成功したら謝礼をもらえ、報酬は代価の2割が一般的だった。
更に客寄せとして「行楽和菜」という趣向を凝らした日本風な遊びも考え出した。「店の外観は日本料理屋そのままで、竹のすだれがかかり、ゆったりとした音楽が流れ、旨そうな料理と酒の芳香が鼻をくすぐる。小さな和室が、思いがけず桃源郷のような別転地へと変貌する。部屋は普通と特別の2種類があり、特別室は4人以上じゃないと利用できないが、普通クラスに人数規定はない。個室で正統派和食が楽しめ、酒と肴で腹が満たされると、艶美な女性が来て枕を勧めてくれる。値段は高いが常連は大勢おり、ひっきりなしにのれんがくぐられている。」
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陳祖恩(Chen Zu En)
復旦大学歴史系卒業。上海東華大学人文学院教授、上海社会科学院歴史研究所研究員。 日本の茨城大学、法政大学、 神奈川大学でも学んだ。最近の著作に「尋訪東洋人~ 近代上海の日本居留人」、「白竜山人王一亭伝」などがある。
復旦大学歴史系卒業。上海東華大学人文学院教授、上海社会科学院歴史研究所研究員。 日本の茨城大学、法政大学、 神奈川大学でも学んだ。最近の著作に「尋訪東洋人~ 近代上海の日本居留人」、「白竜山人王一亭伝」などがある。
2008-11-05掲載
※この情報は上記日程に掲載されたものです。
掲載日時より数ヶ月後の掲載情報の保障はいたしかねます。情報の確認は各々お店または企業へお問い合わせください。
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