ビジネス特集
日本での邂逅を経て日本語学校を各地に設立
魏海波氏(上海朝日文化商務培訓中心・校長)
魏海波氏(上海朝日文化商務培訓中心・校長)

"恩人"との二人三脚で上海朝日文化商務培訓中心を発展させてきた魏海波氏
日本で出会った"恩人"からのバックアップを得て、日本語学校を上海に設立した魏海波氏。病気やSARSなどの試練を乗り越え、 12年間に渡って中国各地に分校を増やしてきた。今年、天津と広州にも分校を設置する予定。同校のプレゼンスがますます高まっていきそうだ。
工場労働者から大学生に
山東省青島市で生まれた魏海波氏は、小学4年生で上海に渡った。17歳で入隊、福建省で6年間軍隊生活を送り、76年に上海に戻ると国営工場で工場労働者をしながら大学を目指した。文革が終了ばかりの70年代後半、大学入試は超難関、志願倍率は50倍にも達した。
78年、華東師範大学歴史学部に入学を果たす。遣隋使を勉強し、初めて日本に興味を持ち、外国語に日本語を選択。教科書はなく、日本人先生もいないという環境だったが、熱心に勉強に取り組んだ。
82年、上海社会科学院法学研究所に入所。研究員に与えられた留学枠を利用し、88年一橋大学大学院に留学する。91年の卒業まで勉学に励むとともに、華僑の留学生向けの学生新聞制作に携わる。卒業後は三菱綜合研究所に入社、中国専門家として中国研究の雑誌編集を担当した。
工場労働者から大学生に
山東省青島市で生まれた魏海波氏は、小学4年生で上海に渡った。17歳で入隊、福建省で6年間軍隊生活を送り、76年に上海に戻ると国営工場で工場労働者をしながら大学を目指した。文革が終了ばかりの70年代後半、大学入試は超難関、志願倍率は50倍にも達した。
78年、華東師範大学歴史学部に入学を果たす。遣隋使を勉強し、初めて日本に興味を持ち、外国語に日本語を選択。教科書はなく、日本人先生もいないという環境だったが、熱心に勉強に取り組んだ。
82年、上海社会科学院法学研究所に入所。研究員に与えられた留学枠を利用し、88年一橋大学大学院に留学する。91年の卒業まで勉学に励むとともに、華僑の留学生向けの学生新聞制作に携わる。卒業後は三菱綜合研究所に入社、中国専門家として中国研究の雑誌編集を担当した。
"恩人"と日本で邂逅
魏氏は、後の恩人となる大森和夫氏と89年に出会っている。元朝日新聞記者の大森氏は、日本で暮らす留学生の苦しい生活を知ると、88年私財を投げ打ち留学生をバックアップする国際交流研究所を設立。この研究所が公募した日本語論文に魏氏が投稿したのをきっかけにふたりの付き合いが始まる。
天安門事件の年の冬、大森氏のリクエストでふたりは上海を旅行する。そこで日本語学校を見学した大森氏は、暗い教室で前時代的な教科書を使い勉強する生徒を目の当たりすると、教科書の提供を申し出、魏氏に提案する― ―「魏さん、日本語学校をやってみないか」。「当時は実現するとは思わなかったが、軽い気持ちで『やりたい』と答えた」と魏氏は笑って振り返る。
魏氏の三菱綜合研究所入社後、ふたりは年に数回会うだけの関係となったが、大森氏は日本語学校設立の計画を捨てなかった。96年、遂に学校経営を決心した魏氏は上海に戻ると、大森氏から資金提供を受け、上海朝日文化商務培訓中心を設立する。
魏氏は、後の恩人となる大森和夫氏と89年に出会っている。元朝日新聞記者の大森氏は、日本で暮らす留学生の苦しい生活を知ると、88年私財を投げ打ち留学生をバックアップする国際交流研究所を設立。この研究所が公募した日本語論文に魏氏が投稿したのをきっかけにふたりの付き合いが始まる。
天安門事件の年の冬、大森氏のリクエストでふたりは上海を旅行する。そこで日本語学校を見学した大森氏は、暗い教室で前時代的な教科書を使い勉強する生徒を目の当たりすると、教科書の提供を申し出、魏氏に提案する― ―「魏さん、日本語学校をやってみないか」。「当時は実現するとは思わなかったが、軽い気持ちで『やりたい』と答えた」と魏氏は笑って振り返る。
魏氏の三菱綜合研究所入社後、ふたりは年に数回会うだけの関係となったが、大森氏は日本語学校設立の計画を捨てなかった。96年、遂に学校経営を決心した魏氏は上海に戻ると、大森氏から資金提供を受け、上海朝日文化商務培訓中心を設立する。

日本人教師32人、中国人教師170人と大きく規模を拡大
試練を乗り越えて
創立時、日本人教師1人、中国人教師4人でスタートした上海朝日文化商務培訓中心は、現在日本人教師32人、中国人教師170人と大きく規模を拡大させている。上海以外に、南京、無錫、蘇州、常州、昆山、南通、厦門に分校を設け、年間学生数は数万人に及ぶ。
「数字だけ見れば順調のようだが、現実はそう甘くない。日本語学校は乱立し、競争は年々厳しくなっている」と魏氏は話す。2002、03年は試練の年となった。病気で魏氏が半年間静養を余儀なくされた半年後に、SARSが発生。「生徒は来ない。もちろん収入がガクッと落ちた」(魏氏)。
この時、「こうした疫病が長く続いたことはない」という大森氏のアドバイスをヒントに、魏氏は発想を転換。リストラに走る他校を尻目に、優秀な人材のヘッドハンティングに動く。当時就職した人材の多くが、会社の中核として現在も活躍している。
同校の強みは12年間の歴史と優秀な「管理チーム」だ。「海亀派」を中心とした中国人教師と日本人教師が、生徒の日本語向上という目標に向い結束している。「この強みを今後の発展の基礎にしたい」と魏氏は力を込める。今年日系企業が多数進出する天津と広州にも分校を設置する予定。同校のプレゼンスがますます高まっていきそうだ。
創立時、日本人教師1人、中国人教師4人でスタートした上海朝日文化商務培訓中心は、現在日本人教師32人、中国人教師170人と大きく規模を拡大させている。上海以外に、南京、無錫、蘇州、常州、昆山、南通、厦門に分校を設け、年間学生数は数万人に及ぶ。
「数字だけ見れば順調のようだが、現実はそう甘くない。日本語学校は乱立し、競争は年々厳しくなっている」と魏氏は話す。2002、03年は試練の年となった。病気で魏氏が半年間静養を余儀なくされた半年後に、SARSが発生。「生徒は来ない。もちろん収入がガクッと落ちた」(魏氏)。
この時、「こうした疫病が長く続いたことはない」という大森氏のアドバイスをヒントに、魏氏は発想を転換。リストラに走る他校を尻目に、優秀な人材のヘッドハンティングに動く。当時就職した人材の多くが、会社の中核として現在も活躍している。
同校の強みは12年間の歴史と優秀な「管理チーム」だ。「海亀派」を中心とした中国人教師と日本人教師が、生徒の日本語向上という目標に向い結束している。「この強みを今後の発展の基礎にしたい」と魏氏は力を込める。今年日系企業が多数進出する天津と広州にも分校を設置する予定。同校のプレゼンスがますます高まっていきそうだ。
ビジネス特集 08年2月号一覧
情報提供:
Whenever CHINA 08年2月号
Whenever CHINA 08年2月号2008/3/10 更新









