ビジネス特集
"下海"に挑んだ官僚エリート 上海版ビッグサイト目指す
傅禄永氏(上海世貿商城・執行副総裁)
傅禄永氏(上海世貿商城・執行副総裁)

「日本ではいろいろな人に親切にしてもらった」と語る傅氏。「しかし、物価の高さにはたまげました」
「官」を辞してビジネスの世界に飛び込むことを中国語で"下海"という。上海世貿商城の執行副総裁としてマートビジネスに携わる傅禄永氏も"下海"した中央エリートのひとり。社会科学院に属し、 80年代、奨学金を得て東京大学に留学した。
官僚制度の研究に虜となる
「"官僚"の言葉がタイトルについた書籍を懸命に買いあさりました」と語る傅禄永氏。日本政府から奨学金を受け東京大学に在籍した彼が虜になったのは日本の官僚制度だった。
「学べば学ぶほど好きになった」と傅氏は振り返る。卒業論文のテーマは「日本の奇跡と霞ヶ関」。国益を考える官僚の存在としっかりした制度があったから日本の戦後の奇跡があったという持論をいまでも崩さない。留学を終え社会科学院に戻った際には、自身の研究をもとに5万字ほどの提案レポートを上部組織に提出したほか、猪口孝氏との共著で『政治過程』(経済日報)という題名の専門書も上梓している。
「社会科学院では日本政府の海南島調査プロジェクト、日中経済交流会で事務局長を担当するなど重要なポストを担ってきました。日本の経済要人の敦厚視察に引率する際には空軍の専用機をチャーターすることもしました」と当時を振り返る。
「しかし、エネルギーを注いだヤオハンのプロジェクトを終えてチームが解散となった時、役所仕事からは離れたいと思ったのです」(傅氏)
官僚制度の研究に虜となる
「"官僚"の言葉がタイトルについた書籍を懸命に買いあさりました」と語る傅禄永氏。日本政府から奨学金を受け東京大学に在籍した彼が虜になったのは日本の官僚制度だった。
「学べば学ぶほど好きになった」と傅氏は振り返る。卒業論文のテーマは「日本の奇跡と霞ヶ関」。国益を考える官僚の存在としっかりした制度があったから日本の戦後の奇跡があったという持論をいまでも崩さない。留学を終え社会科学院に戻った際には、自身の研究をもとに5万字ほどの提案レポートを上部組織に提出したほか、猪口孝氏との共著で『政治過程』(経済日報)という題名の専門書も上梓している。
「社会科学院では日本政府の海南島調査プロジェクト、日中経済交流会で事務局長を担当するなど重要なポストを担ってきました。日本の経済要人の敦厚視察に引率する際には空軍の専用機をチャーターすることもしました」と当時を振り返る。
「しかし、エネルギーを注いだヤオハンのプロジェクトを終えてチームが解散となった時、役所仕事からは離れたいと思ったのです」(傅氏)
「官」を辞して「商」に賭ける
傅氏は続ける。「もちろん"下海"には不安はありました。"鉄飯碗"を諦めることなのですから」(傅氏)
結局、「日本語には自信がある。どこかの企業で通訳として雇ってもらえるなら食いはぐれはないはず」と開き直った。院長、副院長からの温かい励ましや支持も受けた。そしてセコム・チャイナへの就職を果たしたのは1991年、傅氏31歳の時だった。
入社後、まず割り当てられたポジションは企画部長。社会科学院で培った調査力、レポート作成力がものを言うはずだった。が、しかし……。「中国式レポートはいわゆる論説。これでは日本人が日本語で読んでも分からない。日本人がどんなレポートを求めるのかが、企画部での仕事を通じて理解できました」(傅氏)
レポート作成のツボを抑え、実績を上げるや今度は別のミッションを与えられた。配属先は営業だった。北京、上海、広州、大連拠点をつくり、販売計画を策定する。そして全国の販売網をつくり、販売管理、売上げ管理を実行していく。日本側と折衝しながら中国の現状に沿った形にアレンジ、その過程でセコム・チャイナの売上を着実に伸ばしていった。
ついにはセコム・チャイナ副総裁の地位にまで駆け上った傅氏。順風満帆に思われたが、2003年、突然の身体の不調を訴える。長期間の"モグラ"生活がたたった。「ポストが上がってからは夜中3時前に帰れれば良いほうでした」(傅氏)。これを機に傅氏はリフレッシュを決意、12年勤めたセコム・チャイナを円満退職する。
傅氏は続ける。「もちろん"下海"には不安はありました。"鉄飯碗"を諦めることなのですから」(傅氏)
結局、「日本語には自信がある。どこかの企業で通訳として雇ってもらえるなら食いはぐれはないはず」と開き直った。院長、副院長からの温かい励ましや支持も受けた。そしてセコム・チャイナへの就職を果たしたのは1991年、傅氏31歳の時だった。
入社後、まず割り当てられたポジションは企画部長。社会科学院で培った調査力、レポート作成力がものを言うはずだった。が、しかし……。「中国式レポートはいわゆる論説。これでは日本人が日本語で読んでも分からない。日本人がどんなレポートを求めるのかが、企画部での仕事を通じて理解できました」(傅氏)
レポート作成のツボを抑え、実績を上げるや今度は別のミッションを与えられた。配属先は営業だった。北京、上海、広州、大連拠点をつくり、販売計画を策定する。そして全国の販売網をつくり、販売管理、売上げ管理を実行していく。日本側と折衝しながら中国の現状に沿った形にアレンジ、その過程でセコム・チャイナの売上を着実に伸ばしていった。
ついにはセコム・チャイナ副総裁の地位にまで駆け上った傅氏。順風満帆に思われたが、2003年、突然の身体の不調を訴える。長期間の"モグラ"生活がたたった。「ポストが上がってからは夜中3時前に帰れれば良いほうでした」(傅氏)。これを機に傅氏はリフレッシュを決意、12年勤めたセコム・チャイナを円満退職する。
目標は上海版ビッグサイト
04年、傅氏を副総裁というポストで迎えたのが上海世貿商城(上海マート)である。上海市内にある5大展示会場で唯一の民間資本として知られる上海マートを、傳氏は自ら描くコンセプトによって盛り立てていくこととなった。日系企業の常駐テナントを110社に増加し、アパレル、ギフト、建材といった主要テーマを掲げ、魅力あるイベント開設の機会を伺う。「6月に"中国節能(省エネ)ウィーク"があります。それをにらみながら日本の環境建材館もつくりたい」と傅氏は抱負を語る。
「上海の5大展示会場で 06年に行われたイベント数は340件、出展社数は17 万社、入場者数850万人。対して東京ではビッグサイト単独でイベント数320件、出展社数35万社、入場者数 1500万人という数字を残しています」(傳氏)
発展途上にある中国のイベント市場の実態を指摘しつつ、その大きな潜在性も語る傅氏。そして強く一言。「ビッグサイトに負けぬものをつくってみせます」(傅氏)。
04年、傅氏を副総裁というポストで迎えたのが上海世貿商城(上海マート)である。上海市内にある5大展示会場で唯一の民間資本として知られる上海マートを、傳氏は自ら描くコンセプトによって盛り立てていくこととなった。日系企業の常駐テナントを110社に増加し、アパレル、ギフト、建材といった主要テーマを掲げ、魅力あるイベント開設の機会を伺う。「6月に"中国節能(省エネ)ウィーク"があります。それをにらみながら日本の環境建材館もつくりたい」と傅氏は抱負を語る。
「上海の5大展示会場で 06年に行われたイベント数は340件、出展社数は17 万社、入場者数850万人。対して東京ではビッグサイト単独でイベント数320件、出展社数35万社、入場者数 1500万人という数字を残しています」(傳氏)
発展途上にある中国のイベント市場の実態を指摘しつつ、その大きな潜在性も語る傅氏。そして強く一言。「ビッグサイトに負けぬものをつくってみせます」(傅氏)。
ビジネス特集 08年2月号一覧
情報提供:
Whenever CHINA 08年2月号
Whenever CHINA 08年2月号2008/3/10 更新









