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華「外」圏出身 〜中国ビジネスパーソン列伝〜
文革から改革開放、現在まで 中国の姿見つめ続けた鉄鋼派
上海住友商事有限公司の設立から七年間にわたり陣頭指揮を取り、華東地区における住友商事の事業を軌道に乗せたのが中浦和一氏だ。中国ビジネス歴は40年強に及ぶ超ベテラン。文革から改革開放、高度経済成長まで激動の中国現代史を、一貫して中国ビジネスに生きた中浦氏が見てきたものとは。

中浦和一 氏(上海住友商事有限公司・高級顧問)
『三国志』が結んだ中国との縁
中国出張が過去300回以上に及び、一九九四年から現在まで上海に駐在する上海住友商事の中浦和一氏。入社から上海駐在までの30年間、一貫して住友商事で鉄鋼畑を歩んだ、いわゆる"鉄鋼派"である。
子供の頃から中国文学に興味を持ち、『三国志』、『水滸伝』など翻訳小説に親しんだ。大学は大阪外国語大学の中国語学科に進み、中国現代文学を専攻する。
「当時は中国文学=プロレタリア文学で、文学不毛の時代とも言われた。社会主義小説から、次第に近代文学へ関心を移し、魯迅などを研究した」(中浦氏)
日本と中国に国交のない時代。日本の商社はいち早く将来の大きなビジネス相手として、中国へ熱視線を向けていた。中国語を学ぶ者が少なかった故、中国語学科の若者は商社の青田買いの対象となった。中浦氏も複数の商社からアプローチを受け、大学3年で住友商事への入社が内定する。
64年に入社し中国貿易部門へ配属。その後鉄鋼部門に移り、66年初めて中国へ出張する。その時の商談の場を忘れられない。商談相手の中国人に「Can you speak English?」とやられた。
「地域学を標榜する大阪外大では会話学習に力を入れていなかった。とはいえ、少しは自信があったためショックだった」
中浦氏は実践の場を生かしながら必死で独学。数年後には商談で通訳を務めるほどのレベルに達した。

北京で迎えた中日国交回復
当時、日本の鉄鋼各社は住友商事など商社を窓口として製鉄を中国へ輸出していた。中浦氏は油田開発や石油輸送・精製、火力発電に使用する鋼管(スチールパイプ)の商談を担当。中国最大の油田・大慶油田が発見されて以降、鋼管のニーズが急激に高まって行った。
中浦氏が初出張してから数カ月後、文化大革命が始まった。外国人の行動は厳しく制限されたが、街頭でショッキングな光景に出くわすこともあった。当時の彼我の差は今とは比べ物にならない。常にカルチャーショックを受けながらのビジネスとなった。
72年9月25日、中日国交回復の日を中浦氏は北京で感激を持って迎えた。
「国交のない国でビジネスをするリスクを感じていた。テレビで日章旗を付けたJAL機が北京空港に降り立った瞬間を見て、感無量の思いだった」
これで日中のビジネスは間違いなく伸びて行く、と確信した瞬間でもあった。

1997年上海宝山区で行われた電磁鋼板製造設備の輸出契約調印式。
輸入側の宝山製鉄所と輸出側の川崎製鉄、住友商事が出席した。コーディネーターを務めた中浦氏(左3人目)
中日共同商談に20年間かかわる
国交回復を機に、中国への製鉄輸出が本格化した。当時、中日鉄鋼商談は「半年契約」。半年に一度、東京や北京で商談を行い、数量と金額を決めた。1回の商談で300万から500万トンの取引量(現在のおよそ2倍)となり、非常に大きな規模だったことから両者譲らず、商談期間は1カ月に及んだ。
最終的には日本側が譲歩するかたちが多かったが、スケールメリットからwin-winの商談となった。この中日の商談で決めた価格が、世界の鉄鋼の最低レベルの基準価格となった。 製鉄の共同商談は72年から30年間続いたが、中浦氏は日本側幹事商社代表として94年までかかわっている。
中浦氏は働き盛りの40代で、本社鉄鋼東西貿易部長、鋼管貿易第三部長を歴任した。出張ベースで訪れる中国は、78年からの改革開放を機に大きな変化を遂げる。
「社会の雰囲気がオープンになった。中国人が自分の言葉でしゃべるようになり、外国人である自分もなんだかホッと息をつく思いだった」

住商の華東地区の事業を軌道に
74年、53歳で住友商事上海事務所長に就任した。この人事を推進したのが、当時の常務で、その後社長、会長を歴任、経団連副会長も務めた宮原賢次氏だ。「上海がこれから住商にとってどれだけ重要になっていくかキミは分かっているね」、こう激励され、中浦氏は上海に向かった。
その一年後、上海住友商事有限公司が開業し、中浦氏は総経理に就く。上海経済の成長に併せ順調に業績を伸ばし、3年後には黒字化を達成した。ビジネスのボリュームは開業数年で広州、北京を追い越し、中浦氏が総経理を退いた2002年までに台湾地区を超え、香港地区と同規模に成長。50名だった社員数が8 年間で140名(中国人120名、日本人20名)に拡大している。
同社では、「貿易」と「投資」の二本柱でビジネスを展開。貿易では鉄鋼から化学品、電子、繊維、プラントなどを扱った。また中浦氏の任期中、華東地区で 20社に投資、合弁会社の設立に注力した。現在、華東地区を中心に60社近くの同社の投資会社があるが、当時は投資事業の重要な種まきの時期となった。
中浦氏が採った経営戦略は、中国トップ企業の宝鋼や上海汽車、上海石化などとのビジネスを多角的に増やしていくことだった。
社内業務では、HRに尽力する。優秀な人材の確保と教育、人材現地化、またその人材の待遇と管理をどう改善するのか――。「現地社員との良い人間関係の構築」を基本方針に、これらの整備を進めていった。中浦氏は、同社で人事面のトラブルがいまだにないことを誇りにしている。
住友商事では、2000年より商社の中でいち早く年功序列を絶ち、成果主義の人事制度を確立している。
「スタッフのモチベーションを高める仕組み作りに取り組んだ。こうした実力主義の制度が最も機能し、成果を上げたのが当社だったと思う」

日本人学校校舎の建設に尽力
中浦氏は95年から96年と、2000年から01年までの二期、上海日本商工クラブの会長を務めている。
一期目、日本人学校校舎(虹橋校)の建設責任者として尽力した。投資額は20億円。国家予算で6億円、寄付で11億円、残りは融資に頼った。
「企業からの寄付はいわゆるシドニー方式を採った。駐在員数と本社の資本金を勘案し、バランスを取って募った。結果、住友商事や伊藤忠商事等の大手商社が最も大口の寄付をしている」
国家予算、寄付、融資とも資金集めは難航。中浦氏は、当時の商工クラブ理事企業と力を合わせ、この学校建設に全精力を傾けることになった。
「当時、日本人駐在員の児童は地元の学校校舎を間借りしていたが、環境は決して恵まれていなかった」
駐在員家族の念願として94年にスタートした学校建設プロジェクトは、95年に終了。700人に対応する立派な学校が完成した。第1期生として100名の生徒が入学した。
「苦労が多かっただけに、完成した時は『やったな!』と感激も一塩。これで少しは日本人社会に貢献できたと感じた」
「700人も収容できる学校なんて必要ないんじゃないか」、そんな批判の声も上がったが、3、4年で定員をオーバーし、増設に次ぐ増設となった。昨年には、浦東新区へ世界最大の新校舎が建設されている。

2002年の白玉蘭栄誉賞授賞式。この年は6人に授与された
家族の協力が支えた上海の10年
中浦氏は02年に総経理を退任すると、住友商事中国総代表補佐に就任、05年からは上海住友商事有限公司高級顧問となった。
これまで、上海市政府や中国企業と交流を積極的に重ねてきた。市政府関係者からは中日の"架け橋役"に召され、SARSなどの非常時に、アドバイザーとして日本側の意見を求められることもあった。
05年、熊本県政府の上海ビジネスアドバイザーを引き受け、実質の熊本県在上海代表として活動を続けている。熊本に出向き、中国ビジネスの概況を講演するほか、地元企業に中国進出のアドバイスをしている。
これまで10年強、妻と息子ふたりを日本に残し、単身上海でやってきた。
「家族の理解があったからこそ、任務に思う存分取り組めた。家族の平穏こそ、ビジネスのベースだ。2010年の上海万博を見届けた後、日本に戻る予定。その後は家族にしっかり恩返しするつもり」
文革の時代から現在まで40年強の歴史の中で、中国は大きく様変わりしたが、中浦氏にとっては常に自分の力を最大限発揮できるビジネスのフィールドだった。感謝の意味も込め、帰国までの残された時間、"架け橋役"となり、中日友好のために力を尽くしたいと中浦氏は考えている。
中浦和一 氏(なかうら・わいち)
プロフィール…1941年大阪生まれ。64年に住友商事入社。本社で鉄鋼東西貿易部長、鋼管貿易第三部長を歴任の後、94年同社上海事務所長、95年上海住友商事有限公司総経理に着任。現在、同社高級顧問。2002年同市政府が社会、経済、教育の発展に寄与した外国人に贈る最高勲章・白玉蘭栄誉賞を受賞。
ビジネス特集 07年11月号一覧
情報提供: Whenever CHINA 07年11月号
2007/11/7 更新
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