巻頭インタビュー
「民俗」モチーフに流行創造 中華文化「走出去」時代を先取り

夏場はお気に入りのベレー帽の着用は諦めるという励発忠氏。「一年の半年はアーティスト、半年は商人です(笑)」(励氏)
中国を代表するグラフィック・デザイナー、そしてエッセイストであり教育者でもある上海天大広告有限公司董事長・励忠発氏。励氏が中国の広告業界で演じる役割、それは「民俗・民間芸術」のモード創出にある。80年代後半に日本に留学。その前後に「中国民居」と「中国結び」という2つの流行の仕掛け人となった。北京五輪・上海万博という国際イベントを控え、同氏の信念は揺るがない。「越是民族的越是世界的」――民族的なものこそ世界的なもの――。
「中国民居」ブーム
外国との接触、それはたとえば、その人が本来持っているインスピレーションを開花させ、才能の幹を太らせる、ひとつの触媒として働くものといえる。
香港地区で生まれ育ったブルースリーは、アメリカに渡ることで従来の型にはまらない独自のクンフーを編み出した。世界的指揮者である小澤征爾は、カラヤンやバーンスタインとの接触することで、世界の舞台へと羽ばたく土台を築いていったというように…。
中国を代表するグラフィック・デザイナーである励忠発氏(上海天大広告有限公司・董事長)も同じことが言える。芸術家としてだけでなく、教育者、あるいは "留日"起業家としても知られる励氏は、80年代後半に日本へ渡航、その後、亀倉雄策氏(故人)を皮切りとして日本デザイン界を背負う数々の著名人たちとの交流を持った。一方で全国津々浦々を行脚、多様な日本の民俗文化・伝統芸能と接する過程で悟ったのが、「民族的なものこそ国際的なもの」という信念だった。
励氏は上海に生まれたものの、時代の波に翻弄されつつ、60年代を知識青年として黒龍江省で過ごす。そんな彼がようやく自らの情熱を注げる芸術の舞台に舞い戻れたのは78年、文革が終了してからのことである。
同年、中央工芸美術学院(現清華大学美術学院)を卒業。その後、中国図書進出口総公司勤務を経て、84年同学院の教諭職に就いた励氏は、後生の育成にあたりながら一つの事業に心血を注いだ。中国の郵便切手「中国民居」シリーズの制作である。
励氏は、中国全国各地にある風情ある「民居」、素朴ながら重厚な趣のなかにも美感に富んだ地方文化を次々に郵便切手のデザインに取り込んでいった。このシリーズは内外の切手コレクターからも厚い支持を受け、世界で発行量(8億枚!)の最も多い郵便切手とされているという。
「中国民居」ブーム
外国との接触、それはたとえば、その人が本来持っているインスピレーションを開花させ、才能の幹を太らせる、ひとつの触媒として働くものといえる。
香港地区で生まれ育ったブルースリーは、アメリカに渡ることで従来の型にはまらない独自のクンフーを編み出した。世界的指揮者である小澤征爾は、カラヤンやバーンスタインとの接触することで、世界の舞台へと羽ばたく土台を築いていったというように…。
中国を代表するグラフィック・デザイナーである励忠発氏(上海天大広告有限公司・董事長)も同じことが言える。芸術家としてだけでなく、教育者、あるいは "留日"起業家としても知られる励氏は、80年代後半に日本へ渡航、その後、亀倉雄策氏(故人)を皮切りとして日本デザイン界を背負う数々の著名人たちとの交流を持った。一方で全国津々浦々を行脚、多様な日本の民俗文化・伝統芸能と接する過程で悟ったのが、「民族的なものこそ国際的なもの」という信念だった。
励氏は上海に生まれたものの、時代の波に翻弄されつつ、60年代を知識青年として黒龍江省で過ごす。そんな彼がようやく自らの情熱を注げる芸術の舞台に舞い戻れたのは78年、文革が終了してからのことである。
同年、中央工芸美術学院(現清華大学美術学院)を卒業。その後、中国図書進出口総公司勤務を経て、84年同学院の教諭職に就いた励氏は、後生の育成にあたりながら一つの事業に心血を注いだ。中国の郵便切手「中国民居」シリーズの制作である。
励氏は、中国全国各地にある風情ある「民居」、素朴ながら重厚な趣のなかにも美感に富んだ地方文化を次々に郵便切手のデザインに取り込んでいった。このシリーズは内外の切手コレクターからも厚い支持を受け、世界で発行量(8億枚!)の最も多い郵便切手とされているという。

励忠通氏が作り上げた2つの流行。人気を博した郵便切手「中国民居」シリーズ、そして中国聯通のロゴ。
30代半ばからの再出発
「中国民居」シリーズを成功させたものの、さらなる飛躍の道を求めて励氏は模索を続けていた。同氏に出国を決意させた最後の引き金となったのは、上梓した『Modern Graphic Design』というデザイン学の専門書刊行をめぐる版元側との衝突だった。粗雑な編集と製本方法に励氏は呆れかえった。「自ら思い描いた本にならなかった」(励氏)
励氏は自らの人生の突破口と、挑戦の舞台を海外に求めた。知己を頼って日本に渡航。1987年、30代半ばのことであった。
渡航当初、日本語は全く話せなかった。しかし芸は身を助く。自らの"太腕"が生活の糧を得るのに十分な力があることを知る。東京の画廊に出向いて、作品を売り続けたのだという。
「皿洗いする必要はありませんでした。ひたすら絵を書いていれば知己が次々と販売してくれましたから」と励氏はおどける。しかし、旺盛な好奇心は、氏を常に外部の世界へと眼を向けさせた。進んで肉体労働にも従事したという励氏。「地下鉄工事の現場にも出向いたことがありますよ。一週間でやめようとしたら、ちょっとした騒ぎになりましたけど」(励氏)
じつは励氏が働きに出向いた建設現場は、慣習上、一週間で"足を洗える"環境にはなかった。それでも円満に"退職"ができたのは、その頃、福岡美術館で励氏の個展が開かれていたからだという。離職願に個展の資料と招請状を添えて離職理由を説明。手続処理に当たった事務担当者は目を白黒させながら離職許可の判を押したという。
当時の日本はバブル経済絶頂期にあった。その勢いを借りて、外国人の受け入れに混乱が生じてもいた。留学生にとって最初の窓口となる日本語学校も、いたずらに外国人を受け入れ、建築会社やファストフード企業への人手供給が目的と疑われるような運営を行っていたことも語られている。こうした背景のもと、励氏もまた、あらぬ偏見を受けたり、心ない日本人の言葉に接しったりするなど心を痛めたこともあったに違いない。
それでも自らの作品の販売を続け、様々なアルバイトに携わった。日本語も刻苦奮闘の末にマスター。「床に就いている時もラジオをつけっ放しにしていました」(励氏)。生活条件は改善、励氏は武蔵野美術大学に籍を置くこととなる。専攻したのは視覚情報学だった。
しかし、大学の主任教授は励忠発氏の履歴書に目を通すや仰天する。教授はこう恭しく語ったという。「当校では貴方に指導できる教師はいません。図書館で本を読んでいてください」――。
ちなみに、前述の「中国民居」シリーズにおいて励氏が残した作品数は14を数えた。対して、当時、日本で郵便切手の設計を手がけた著名デザイナーの作品数は最多でも7点だったという。
「毎日の目」を発表
大学在学中、励忠発氏は《記号•芸術•情報》なる専門書を上梓した。CIの理論とデザイン応用についての専門書である。
一方、社団法人・日本グラフィック・デザイナー協会(JAGDA)会員にもなった。日本のグラフィック・デザイナー協会会長であった亀倉雄策氏(故人)をはじめとして、著名なデザイナーたちの人脈が築き上げられたのもこの時期だ。また、当時書きためた散文は、その後、『桜と相撲』というエッセイ集となって刊行されている。
91年、武蔵野美術大学の修士号を取得。励氏は大手企業のブランド戦略、システムデザインを手がける経営コンサルティング会社PAOSに入社した。 CI制作というのはデザイナーにとって難度の高い仕事である。十数年たっても採用となる作品を残せないケースもあるという。
ある時、PAOSはとある企業クライアントのイメージ戦略の仕事を請け負った。頭を抱えながら発案に知恵を絞る同僚たちを尻目に、励氏はロゴ図案を書き上げ、それを壁に張って早々と職場を引き上げた。翌朝、出社した励氏の目にとまったのが、オフィス中に掲げられた自らの作品だった。正式採用された図案、それは当時、「毎日の目」をテーマに、大胆な誌面刷新を図ろうとしていた毎日新聞社のシンボルマークだった。
「中国民居」シリーズを成功させたものの、さらなる飛躍の道を求めて励氏は模索を続けていた。同氏に出国を決意させた最後の引き金となったのは、上梓した『Modern Graphic Design』というデザイン学の専門書刊行をめぐる版元側との衝突だった。粗雑な編集と製本方法に励氏は呆れかえった。「自ら思い描いた本にならなかった」(励氏)
励氏は自らの人生の突破口と、挑戦の舞台を海外に求めた。知己を頼って日本に渡航。1987年、30代半ばのことであった。
渡航当初、日本語は全く話せなかった。しかし芸は身を助く。自らの"太腕"が生活の糧を得るのに十分な力があることを知る。東京の画廊に出向いて、作品を売り続けたのだという。
「皿洗いする必要はありませんでした。ひたすら絵を書いていれば知己が次々と販売してくれましたから」と励氏はおどける。しかし、旺盛な好奇心は、氏を常に外部の世界へと眼を向けさせた。進んで肉体労働にも従事したという励氏。「地下鉄工事の現場にも出向いたことがありますよ。一週間でやめようとしたら、ちょっとした騒ぎになりましたけど」(励氏)
じつは励氏が働きに出向いた建設現場は、慣習上、一週間で"足を洗える"環境にはなかった。それでも円満に"退職"ができたのは、その頃、福岡美術館で励氏の個展が開かれていたからだという。離職願に個展の資料と招請状を添えて離職理由を説明。手続処理に当たった事務担当者は目を白黒させながら離職許可の判を押したという。
当時の日本はバブル経済絶頂期にあった。その勢いを借りて、外国人の受け入れに混乱が生じてもいた。留学生にとって最初の窓口となる日本語学校も、いたずらに外国人を受け入れ、建築会社やファストフード企業への人手供給が目的と疑われるような運営を行っていたことも語られている。こうした背景のもと、励氏もまた、あらぬ偏見を受けたり、心ない日本人の言葉に接しったりするなど心を痛めたこともあったに違いない。
それでも自らの作品の販売を続け、様々なアルバイトに携わった。日本語も刻苦奮闘の末にマスター。「床に就いている時もラジオをつけっ放しにしていました」(励氏)。生活条件は改善、励氏は武蔵野美術大学に籍を置くこととなる。専攻したのは視覚情報学だった。
しかし、大学の主任教授は励忠発氏の履歴書に目を通すや仰天する。教授はこう恭しく語ったという。「当校では貴方に指導できる教師はいません。図書館で本を読んでいてください」――。
ちなみに、前述の「中国民居」シリーズにおいて励氏が残した作品数は14を数えた。対して、当時、日本で郵便切手の設計を手がけた著名デザイナーの作品数は最多でも7点だったという。
「毎日の目」を発表
大学在学中、励忠発氏は《記号•芸術•情報》なる専門書を上梓した。CIの理論とデザイン応用についての専門書である。
一方、社団法人・日本グラフィック・デザイナー協会(JAGDA)会員にもなった。日本のグラフィック・デザイナー協会会長であった亀倉雄策氏(故人)をはじめとして、著名なデザイナーたちの人脈が築き上げられたのもこの時期だ。また、当時書きためた散文は、その後、『桜と相撲』というエッセイ集となって刊行されている。
91年、武蔵野美術大学の修士号を取得。励氏は大手企業のブランド戦略、システムデザインを手がける経営コンサルティング会社PAOSに入社した。 CI制作というのはデザイナーにとって難度の高い仕事である。十数年たっても採用となる作品を残せないケースもあるという。
ある時、PAOSはとある企業クライアントのイメージ戦略の仕事を請け負った。頭を抱えながら発案に知恵を絞る同僚たちを尻目に、励氏はロゴ図案を書き上げ、それを壁に張って早々と職場を引き上げた。翌朝、出社した励氏の目にとまったのが、オフィス中に掲げられた自らの作品だった。正式採用された図案、それは当時、「毎日の目」をテーマに、大胆な誌面刷新を図ろうとしていた毎日新聞社のシンボルマークだった。

「越是民族的越是世界的」(民族的なものこそ世界的なもの)――「春節」はすっかり世界でも知られる民俗行事となった。写真は上海豫園界隈の「中国結び」売り場。
「中国結び」流行の仕掛け人
92年、励氏は独立、自らの設計事務所を稼動させた。この頃はまだ中国への復帰は念頭になかったという励氏。「時は好景気、一日の料亭接待で150万円も振舞われることもありました」(励氏)。
しかし、そんなバブル経済はあえなくはじけた。事業もあおりを受けて、当初見込んだ売上額を達成するのは難しかったという。「当時の経験は強烈でした。だからこそ、いまの中国が好景気であればあるほど企業経営には慎重になります」(励氏)
95年、励氏は、まだテイクオフを始めて間もない上海に新天地を求めた。まずは励式デザイン諮詢有限公司を設立、そのあとTIDAデザイン有限公司を立ち上げた。かつて「中国民居」モードの仕掛け人を演じたそのデザインの才覚は、その後ますます冴え渡る。当初、主たるクライアントはイトキンやサントリーなど日系企業だったが、やがて国内大手企業が続々と励氏にCI制作を委ねていくことになる。
最も代表的な成功事例として中国聯通(チャイナ・テレコム)がある。多くの人は、その名を聞いて、赤と白が互いに連なり「中国結び」を形作ったマークを想起することだろう。「中国結び」は実用性の高い強固な結び方であると同時に、左右対称を基本とする美しい結び目をもつことから、中国の伝統文化の特色として近年、ひときわ人気を博している。活力と創造性、伝統文化のシンボルともいえる。
励氏は言う。「中国結びになぞらえたその絵柄は、先端技術を走る現代の通信企業のイメージも示しています。無限に広がるネットワークと2つのハートをラインで形づくり、心のこもったコミュニケーションと信頼感をテーマとしているのです」(励氏)
「越是民族的越是世界的」(民族・民俗的なものこそ世界に通用するもの)という流行語がある。北京オリンピック開催や上海万博の開催を控え、国際的イベントのホスト国としての自負、近年の経済成長への自信の表れでもあるといえよう。
すでに見てきた「中国結び」はもとより、チャイナドレス、中山服を扱うブティックが街中に林立、あるいは京劇の面譜を装った切手やアクセサリーも小物売り場などで目立ってきた。「民族・民俗的なもの」にビジネス価値を見出し、海外に向けてより積極的にアピールしていこうというトレンドは、今後ますます盛んになっていくに違いない。
芸術家魂と事業家センス
励氏のビジネスマンとしての才覚は現在、地方に点在する様々な民間芸術へと幅広く向けられ始めている。
中国が発展を続け、中国民間芸術の世界はさらに広く深く注目を浴びることになる。外国人旅行客の関心の的となるアイテムの開発、この市場育成を全国レベルでできないか――。励氏は自らが客員講師を務める四川美術大学で「旅行記念品」製作を専攻するコースを設けているという。
また、市場規範とはかけ離れた「碼頭(matou)文化」がはびこる重慶に拠点をかまえ、同地の広告文化の変革に寄与したいと励氏は抱負を語る。
「日本人は真面目。サービス精神に長け、外のよいところを取り入れる。不良品を出さない。中国ではモノは作れるが、品質の管理が苦手。日本顧客を相手にした場合、現場にチェック要員を配置させるなど気も配っています」と自社サービスの品質の高さもアピールする励氏。その表情には成功した経営者としての自信がみなぎっている。
しかし、同氏の原点はやはり芸術家である。かつて、励氏は亀倉雄策氏(前述、故人)から、「デザイナーが絵を書かずしてよいものか」と叱責されたことがあったという。日本デザイン界を牽引したパイオニアからの言葉が、いまでも胸に突き刺さっていると語る。
黒龍江省から北京、東京、そして上海と、人生の浮き沈みをじかに体験してきた励氏。
「バブルに浮かれることはない。しかし国際ブランドをつくるべく、上場を目指す」(励氏)。事業家としてまた芸術家として、励氏が挑む舞台に終着駅はない。
92年、励氏は独立、自らの設計事務所を稼動させた。この頃はまだ中国への復帰は念頭になかったという励氏。「時は好景気、一日の料亭接待で150万円も振舞われることもありました」(励氏)。
しかし、そんなバブル経済はあえなくはじけた。事業もあおりを受けて、当初見込んだ売上額を達成するのは難しかったという。「当時の経験は強烈でした。だからこそ、いまの中国が好景気であればあるほど企業経営には慎重になります」(励氏)
95年、励氏は、まだテイクオフを始めて間もない上海に新天地を求めた。まずは励式デザイン諮詢有限公司を設立、そのあとTIDAデザイン有限公司を立ち上げた。かつて「中国民居」モードの仕掛け人を演じたそのデザインの才覚は、その後ますます冴え渡る。当初、主たるクライアントはイトキンやサントリーなど日系企業だったが、やがて国内大手企業が続々と励氏にCI制作を委ねていくことになる。
最も代表的な成功事例として中国聯通(チャイナ・テレコム)がある。多くの人は、その名を聞いて、赤と白が互いに連なり「中国結び」を形作ったマークを想起することだろう。「中国結び」は実用性の高い強固な結び方であると同時に、左右対称を基本とする美しい結び目をもつことから、中国の伝統文化の特色として近年、ひときわ人気を博している。活力と創造性、伝統文化のシンボルともいえる。
励氏は言う。「中国結びになぞらえたその絵柄は、先端技術を走る現代の通信企業のイメージも示しています。無限に広がるネットワークと2つのハートをラインで形づくり、心のこもったコミュニケーションと信頼感をテーマとしているのです」(励氏)
「越是民族的越是世界的」(民族・民俗的なものこそ世界に通用するもの)という流行語がある。北京オリンピック開催や上海万博の開催を控え、国際的イベントのホスト国としての自負、近年の経済成長への自信の表れでもあるといえよう。
すでに見てきた「中国結び」はもとより、チャイナドレス、中山服を扱うブティックが街中に林立、あるいは京劇の面譜を装った切手やアクセサリーも小物売り場などで目立ってきた。「民族・民俗的なもの」にビジネス価値を見出し、海外に向けてより積極的にアピールしていこうというトレンドは、今後ますます盛んになっていくに違いない。
芸術家魂と事業家センス
励氏のビジネスマンとしての才覚は現在、地方に点在する様々な民間芸術へと幅広く向けられ始めている。
中国が発展を続け、中国民間芸術の世界はさらに広く深く注目を浴びることになる。外国人旅行客の関心の的となるアイテムの開発、この市場育成を全国レベルでできないか――。励氏は自らが客員講師を務める四川美術大学で「旅行記念品」製作を専攻するコースを設けているという。
また、市場規範とはかけ離れた「碼頭(matou)文化」がはびこる重慶に拠点をかまえ、同地の広告文化の変革に寄与したいと励氏は抱負を語る。
「日本人は真面目。サービス精神に長け、外のよいところを取り入れる。不良品を出さない。中国ではモノは作れるが、品質の管理が苦手。日本顧客を相手にした場合、現場にチェック要員を配置させるなど気も配っています」と自社サービスの品質の高さもアピールする励氏。その表情には成功した経営者としての自信がみなぎっている。
しかし、同氏の原点はやはり芸術家である。かつて、励氏は亀倉雄策氏(前述、故人)から、「デザイナーが絵を書かずしてよいものか」と叱責されたことがあったという。日本デザイン界を牽引したパイオニアからの言葉が、いまでも胸に突き刺さっていると語る。
黒龍江省から北京、東京、そして上海と、人生の浮き沈みをじかに体験してきた励氏。
「バブルに浮かれることはない。しかし国際ブランドをつくるべく、上場を目指す」(励氏)。事業家としてまた芸術家として、励氏が挑む舞台に終着駅はない。
情報提供:
Whenever CHINA 08年3月号
Whenever CHINA 08年3月号2008/03/12 更新
励忠発 氏
上海天大広告設計有限公司 董事長
上海天大広告設計有限公司 董事長
1951年上海生まれ。60年代を黒龍江省で過ごす。78年中央工芸美術学院卒業(商業美術専攻)、中国図書進出口総公司勤務を経て、84年同学院の教諭職に就く。後生の指導にあたりながら当時の郵便切手『中国民居』シリーズの制作を手がける。87年に渡日。91年日本武蔵野美術大学・視覚伝達設計修士課程修了後、PAOSに入社、企業CI制作の業務等に従事する。翌年に独立起業、東京励忠発デザイン事務所を設立する。95年帰国。CI制作を主に広範な広告事業を展開し現在に至る。中国の広告業界関係者にとってバイブル的な存在である『記号・芸術・情報』『設計之春天』や、日本の民俗をテーマに執筆したエッセイ『桜と相撲』他、著書多数。現在、上海天大広告設計有限公司董事長。上海大学美術学院、四川美術大学の客員講師を務める。日本デザイン界社団法人・日本図形設計家協会(JAGDA)正式会員。http://tidadesign.com
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