巻頭インタビュー
日本留学が登竜門に「アジアの黄金時代」に挑む

「大男子主義」( 亭主関白)「年長重視」と揶揄される日本社会。しかし陳氏にとってはその日本への渡航と留学が登竜門となった
日本における上場会社1万7千人のうち唯一の外国籍女性専務取締役という堂々たる肩書き。入社6 年目にして上場企業の経営エリートにのしあがったシンデレラ・ガールである。07年には黎明期にあった中国金融リース業での貢献が認められ、「中華財智十大人物」「中国で最も影響力のある企業家十傑」に選抜された若き経営エリート、それが陳雲薇氏だ。
日新租賃(中国)有限公司が本部オフィスを構えるのは、かつてフランス租界だった上海きっての繁華街、淮海中路エリア。アーバンなトレンド発信基地とCBDの機能を併せ持つ。
フロア受付を通され、簡素ながら整然とした董事長室に入る。そこで出会ったのはまだ 30 歳代の華奢な上海女性。さっと差し出された名刺には「東証一部、ニューヨーク証券取引所上場・ NISグループ株式会社・専務取締役兼執行役員東アジア担当」とある。日本における上場会社で唯一の外国籍専務取締役に駆け上ったシンデレラ・ガールとして内外のメディアで注目を浴びてきた陳雲薇・董事長総経理その人である。
じつは日本のNISグループ本体にとって、 07 年は受難の年だった。改正貸金業法の影響で日本国内の事業環境が悪化、TPG(テキサス・パシフィック・グループ)との戦略的資本・事業提携による事業再建など、同社をめぐる様々な報道が行き交った。しかし、中国進出以来の好調な業績を背景に、陳氏は数年後の香港上場を目指した経営ビジョンを披露、増資計画を追い風に今後の事業攻勢にたしかな自信も見せている。
日本留学が"登竜門" となり、才能を開花させた代表的なケースとして、陳雲薇氏に登場して頂いた。
アメリカへの「踏み板」
三人兄弟の末っ子として上海で育った彼女は、幼少の頃から利発な子どもだった。
将来の夢として彼女が描いたのはアメリカに渡ること。アメリカに滞在する遠縁の親戚から送られてくるクリスマスツリーに欣喜雀躍し、ハリウッド映画を見てそこに映し出されるシーンにときめきを抱く――ジーンズファッションに身をつつみ、欧米文化に傾倒した活発な"ハイカラ"少女、それが彼女に対する周囲の印象だったのではないだろうか。
上海対外貿易学院では貿易・会計を専攻、英語の習得にも励んだ。 TOEFLの成績は600点に達したという。しかし、アメリカへの留学は狭き門だった。保証人の確保や奨学金の申請など、さまざまな関門の前に彼女はなす術がなかった。
一方、日本行きの切符は比較的楽に手に入れられた。とくに陳氏が日本に渡った1992年は日中国交回復 20 周年という節目にあたる年だった。ビザ発給制限もかなり緩和していた時代背景がある。
「まずは日本に留学し、その後にアメリカ行きを考えればよい」――いち早く日本に渡っていた兄からはそう助言されたという。
「割り勘」に面食らう
「アメリカに行くのはエリートへの階段をのぼること、対して日本は出稼ぎ所」。陳氏によれば、 90 年代初頭、中国人にとって日本留学はそんなイメージが一般的だったという。
「日本は一過性の身の置き所、自分の目標は渡米」――当時の"確信犯"ぶりを認めつつ、陳氏は東京にたどり着く。時は1992年10月、陳氏は23歳だった。
日本での生活に慣れ、自らもアルバイトを始めようと思い立った彼女は、ある日、六本木のレストランへと面接に出向く。その時の思い出を彼女は懐かしく語る。
「じつは乗り継ぎ駅で財布を自宅に忘れたことに気づき、拙い日本語と英語を交えながら駅員さんと交渉したんです。デポジットに時計を預けるので改札口を通してもらえないかなどと。そうこうしているうちに約束の面接の時間が刻々と近づいてくる。泣きじゃくりそうになった時、見知らぬ老夫婦がそっと近づいてきて交通費を出してくれたのです」
東京で暮らし、住宅や道路の狭さを感じた以外には、とくにカルチャーショックに苦しむような思いはしなかったという陳氏。アルバイト先でもむしろ日本人のきめ細かさ、(日本での)サービス業のレベルの高さを知るうえで有意義だったと語る。
「ウェイトレスにしても仕事を自分で率先して探す習慣が身についているのですよね。たとえお客がいなくても、ぼーと突っ立っているわけにはいかない。モップがけなりテーブル拭きなり、自ら仕事を探していく勤勉さに接して感銘を受けたものです」
もっとも、友人づきあいで、ちょっとした習慣のギャップに面食らったことはある。「大学在学中、日本人の男子学生に誘われて食事をした時です。その際、初めて割り勘というルールを知りました。お互い学生の身分なのですから当たり前じゃないかと後で兄から説き伏せられたのですが、当時の中国では『AA制』(割り勘)という言葉自体知られていなかったのです(笑)」
「「ニッシンには入るな」
「天生縁分」、あるいは「有縁有分」という言葉、それは何も結婚相手との出会いのみを指すのではない。陳氏にとって日本は自ら必死になって追い求めた対象ではなかったが、いつしか運命の糸で結ばれ、自身のもとに手繰り寄せていた――そんな形容が適当かも知れない。
語学学校を経て入学した上智大学経済学部も4年目を迎え、就職活動シーズンを迎えていた時のことである。陳氏は早々と国際会計法人であるアーサー・アンダーセン(当時) への内定を決めた。しかし、興味半分に他の会社のセミナーにも参加してみようと会社紹介の DMを手にとる。それがニッシン(当時‥現NISグループ)のものだった。
何の気なしに同社の就職説明会の会場に出かけてみようと思った彼女。「それが私の人生を変えた嵜岡(会長兼社長、当時専務)との出会いのきっかけでした。嵜岡は、『うちは松山から出てきた田舎の会社だが、いずれ東証で上場、さらにニューヨーク上場、さらにアジア、中国市場に参入する。君にも力を貸してほしい』と自分の夢を熱く語ったのです」(陳氏)
就職指導の教官からは反対を受けた。「アーサー・アンダーセンへの就職はやめてもよい。推薦できるところが他にもある。しかしニッシンには入るなと言われたのです」――当時の情況を陳氏は3年前に出演したテレビのトーク番組の中でこのように紹介している。
では、周囲の反対を押し切ってまで彼女がニッシンに賭けようとしたのは何故か。
「ニッシンという会社が『自分と同じ目線』にあり、この会社は自分を必要としてると感じたのです」(陳氏)。思いもかけぬ才能を自分から引き出し新たな世界へ導いてくれる人、恩人のことを中国語で「貴人」というが、陳氏にとって嵜岡氏こそ「貴人」そのものだったといえる。
日新租賃(中国)有限公司が本部オフィスを構えるのは、かつてフランス租界だった上海きっての繁華街、淮海中路エリア。アーバンなトレンド発信基地とCBDの機能を併せ持つ。
フロア受付を通され、簡素ながら整然とした董事長室に入る。そこで出会ったのはまだ 30 歳代の華奢な上海女性。さっと差し出された名刺には「東証一部、ニューヨーク証券取引所上場・ NISグループ株式会社・専務取締役兼執行役員東アジア担当」とある。日本における上場会社で唯一の外国籍専務取締役に駆け上ったシンデレラ・ガールとして内外のメディアで注目を浴びてきた陳雲薇・董事長総経理その人である。
じつは日本のNISグループ本体にとって、 07 年は受難の年だった。改正貸金業法の影響で日本国内の事業環境が悪化、TPG(テキサス・パシフィック・グループ)との戦略的資本・事業提携による事業再建など、同社をめぐる様々な報道が行き交った。しかし、中国進出以来の好調な業績を背景に、陳氏は数年後の香港上場を目指した経営ビジョンを披露、増資計画を追い風に今後の事業攻勢にたしかな自信も見せている。
日本留学が"登竜門" となり、才能を開花させた代表的なケースとして、陳雲薇氏に登場して頂いた。
アメリカへの「踏み板」
三人兄弟の末っ子として上海で育った彼女は、幼少の頃から利発な子どもだった。
将来の夢として彼女が描いたのはアメリカに渡ること。アメリカに滞在する遠縁の親戚から送られてくるクリスマスツリーに欣喜雀躍し、ハリウッド映画を見てそこに映し出されるシーンにときめきを抱く――ジーンズファッションに身をつつみ、欧米文化に傾倒した活発な"ハイカラ"少女、それが彼女に対する周囲の印象だったのではないだろうか。
上海対外貿易学院では貿易・会計を専攻、英語の習得にも励んだ。 TOEFLの成績は600点に達したという。しかし、アメリカへの留学は狭き門だった。保証人の確保や奨学金の申請など、さまざまな関門の前に彼女はなす術がなかった。
一方、日本行きの切符は比較的楽に手に入れられた。とくに陳氏が日本に渡った1992年は日中国交回復 20 周年という節目にあたる年だった。ビザ発給制限もかなり緩和していた時代背景がある。
「まずは日本に留学し、その後にアメリカ行きを考えればよい」――いち早く日本に渡っていた兄からはそう助言されたという。
「割り勘」に面食らう
「アメリカに行くのはエリートへの階段をのぼること、対して日本は出稼ぎ所」。陳氏によれば、 90 年代初頭、中国人にとって日本留学はそんなイメージが一般的だったという。
「日本は一過性の身の置き所、自分の目標は渡米」――当時の"確信犯"ぶりを認めつつ、陳氏は東京にたどり着く。時は1992年10月、陳氏は23歳だった。
日本での生活に慣れ、自らもアルバイトを始めようと思い立った彼女は、ある日、六本木のレストランへと面接に出向く。その時の思い出を彼女は懐かしく語る。
「じつは乗り継ぎ駅で財布を自宅に忘れたことに気づき、拙い日本語と英語を交えながら駅員さんと交渉したんです。デポジットに時計を預けるので改札口を通してもらえないかなどと。そうこうしているうちに約束の面接の時間が刻々と近づいてくる。泣きじゃくりそうになった時、見知らぬ老夫婦がそっと近づいてきて交通費を出してくれたのです」
東京で暮らし、住宅や道路の狭さを感じた以外には、とくにカルチャーショックに苦しむような思いはしなかったという陳氏。アルバイト先でもむしろ日本人のきめ細かさ、(日本での)サービス業のレベルの高さを知るうえで有意義だったと語る。
「ウェイトレスにしても仕事を自分で率先して探す習慣が身についているのですよね。たとえお客がいなくても、ぼーと突っ立っているわけにはいかない。モップがけなりテーブル拭きなり、自ら仕事を探していく勤勉さに接して感銘を受けたものです」
もっとも、友人づきあいで、ちょっとした習慣のギャップに面食らったことはある。「大学在学中、日本人の男子学生に誘われて食事をした時です。その際、初めて割り勘というルールを知りました。お互い学生の身分なのですから当たり前じゃないかと後で兄から説き伏せられたのですが、当時の中国では『AA制』(割り勘)という言葉自体知られていなかったのです(笑)」
「「ニッシンには入るな」
「天生縁分」、あるいは「有縁有分」という言葉、それは何も結婚相手との出会いのみを指すのではない。陳氏にとって日本は自ら必死になって追い求めた対象ではなかったが、いつしか運命の糸で結ばれ、自身のもとに手繰り寄せていた――そんな形容が適当かも知れない。
語学学校を経て入学した上智大学経済学部も4年目を迎え、就職活動シーズンを迎えていた時のことである。陳氏は早々と国際会計法人であるアーサー・アンダーセン(当時) への内定を決めた。しかし、興味半分に他の会社のセミナーにも参加してみようと会社紹介の DMを手にとる。それがニッシン(当時‥現NISグループ)のものだった。
何の気なしに同社の就職説明会の会場に出かけてみようと思った彼女。「それが私の人生を変えた嵜岡(会長兼社長、当時専務)との出会いのきっかけでした。嵜岡は、『うちは松山から出てきた田舎の会社だが、いずれ東証で上場、さらにニューヨーク上場、さらにアジア、中国市場に参入する。君にも力を貸してほしい』と自分の夢を熱く語ったのです」(陳氏)
就職指導の教官からは反対を受けた。「アーサー・アンダーセンへの就職はやめてもよい。推薦できるところが他にもある。しかしニッシンには入るなと言われたのです」――当時の情況を陳氏は3年前に出演したテレビのトーク番組の中でこのように紹介している。
では、周囲の反対を押し切ってまで彼女がニッシンに賭けようとしたのは何故か。
「ニッシンという会社が『自分と同じ目線』にあり、この会社は自分を必要としてると感じたのです」(陳氏)。思いもかけぬ才能を自分から引き出し新たな世界へ導いてくれる人、恩人のことを中国語で「貴人」というが、陳氏にとって嵜岡氏こそ「貴人」そのものだったといえる。

07年末に受賞した「中華十大財智人物」に引き続き、「中国で最も影響力のある企業家十傑」にも選抜された。表彰式は1月19日、北京で行われた。
98%の顧客は中国企業
ニッシン入社後、陳氏はまもなくIR(インべスター・リレーションズ、投資家向け広報)を担当する。その間、会社は99年東証一部、 02年ニューヨーク上場と事業展開、 04年には念願の中国進出も果たすこととなる。嵜岡氏は陳氏とともに自らのビジョンを「有言実行」、現実のものとしたのだった。
ニッシンという会社もまたユニークだ。陳氏は中国人留学生として3人目の入社だったが、いまでは日本の本社オフィスのスタッフ多数を中国人が占める。「今年の新規採用者のうち41名が中国人。中国語がごく普通に飛び交っているのを耳にして、自分がどこのオフィスに居るのかわからなくなる」(陳氏)。なお、中国法人については、早々と完全現地化している。
しかし、「(経営トップである陳氏自身が)中国人であるからこそ地元のやり方に通じ、現地化もできて、事業が好調なのだ」という周囲の見方については否定する。
「中国から10年以上も離れていた私にとって、法人設立当初はあくまでも中国語が話せる日本人と同等のポジションでした。むしろ不在期間の空白を必死に埋めるために必死に奮闘しました」(陳氏)
幸い人と接することを好み、広く厚い人脈を作り上げていくなかで、中国の優秀な企業、優秀な起業家をサポートするというミッションを日新租賃(中国)有限公司に課していくことができた。当初視野に入れていた不良債権ビジネスについては、環境変化により軌道修正を余儀なくされたものの、リース事業の業績は順調に伸張、 07年には北京、鄭州、深圳とたて続けに拠点を増設した。現在、顧客の98%は中国企業、それもリース返還の延滞はわずか1%という低さだ。「中国企業は信用できないという世間の見方をわれわれの事業成功によってひっくり返せると信じています」(陳氏)
「 08年は日新租賃(中国)有限公司にとって大きなカギとなる年」と陳氏は語る。数年内に香港での上場を目指し、そのための会社インフラ整備にも余念がない。TPGとの合意が果たされれば、2億ドルに増資するため、さらなる資産規模の拡大を見込む。
一方、「体力増強」と同時に、「上場会社を目指すからには、社員自身もその自覚が必要」と陳氏。NISグループ全体が掲げる「顧客重視」「人間尊重」という理念に加え、陳氏は「厳謹」(慎み深さ)というテーマを加え、確かな企業文化の構築に力を注いでいる。
ニッシン入社後、陳氏はまもなくIR(インべスター・リレーションズ、投資家向け広報)を担当する。その間、会社は99年東証一部、 02年ニューヨーク上場と事業展開、 04年には念願の中国進出も果たすこととなる。嵜岡氏は陳氏とともに自らのビジョンを「有言実行」、現実のものとしたのだった。
ニッシンという会社もまたユニークだ。陳氏は中国人留学生として3人目の入社だったが、いまでは日本の本社オフィスのスタッフ多数を中国人が占める。「今年の新規採用者のうち41名が中国人。中国語がごく普通に飛び交っているのを耳にして、自分がどこのオフィスに居るのかわからなくなる」(陳氏)。なお、中国法人については、早々と完全現地化している。
しかし、「(経営トップである陳氏自身が)中国人であるからこそ地元のやり方に通じ、現地化もできて、事業が好調なのだ」という周囲の見方については否定する。
「中国から10年以上も離れていた私にとって、法人設立当初はあくまでも中国語が話せる日本人と同等のポジションでした。むしろ不在期間の空白を必死に埋めるために必死に奮闘しました」(陳氏)
幸い人と接することを好み、広く厚い人脈を作り上げていくなかで、中国の優秀な企業、優秀な起業家をサポートするというミッションを日新租賃(中国)有限公司に課していくことができた。当初視野に入れていた不良債権ビジネスについては、環境変化により軌道修正を余儀なくされたものの、リース事業の業績は順調に伸張、 07年には北京、鄭州、深圳とたて続けに拠点を増設した。現在、顧客の98%は中国企業、それもリース返還の延滞はわずか1%という低さだ。「中国企業は信用できないという世間の見方をわれわれの事業成功によってひっくり返せると信じています」(陳氏)
「 08年は日新租賃(中国)有限公司にとって大きなカギとなる年」と陳氏は語る。数年内に香港での上場を目指し、そのための会社インフラ整備にも余念がない。TPGとの合意が果たされれば、2億ドルに増資するため、さらなる資産規模の拡大を見込む。
一方、「体力増強」と同時に、「上場会社を目指すからには、社員自身もその自覚が必要」と陳氏。NISグループ全体が掲げる「顧客重視」「人間尊重」という理念に加え、陳氏は「厳謹」(慎み深さ)というテーマを加え、確かな企業文化の構築に力を注いでいる。

NISグループ全体が掲げる「顧客重視」「人間尊重」という理念に、「厳謹」(慎み深さ)というテーマを加え、確かな企業文化の構築に力を注いでいる。
「アジアの黄金時代」
「リースだけで事業を終わらせたくない」――それが陳氏の口癖だ。彼女が目指すのは「金融機能を持った商社」。サプライヤー、エンドユーザ双方に自社の存在感を示しつつ、「リースを切り口に日本ブランド商品を中国のユーザーに販売していくこと」(陳氏)に注力したいという。
「中国でモノを販売したいがルートがない、売上げ回収が不安で手がつけられないという日本のメーカーがある一方、高品質のジャパン・プロダクトを望む中国ユーザーも存在する。そこに中国での与信ビジネスの発展空間があり、両者の橋渡し役として当社の存在意義があるのです」と陳氏は語る。
彼女のねらいはじつはこの先にもある。彼女のNISグループでの肩書きは「東アジア担当」だ。NISグループはベトナム、ホーチミンにすでに事務所を開設、ビジネスフィールドはアジア全体へと広がりをもちつつある。今後は「走出去」戦略をとる中国企業のバックアップ役にも積極的に買って出ることになるだろう。
「これからはアジアの黄金時代です」と陳氏は力をこめる。
「欧米主流の国際社会のターニングポイントとなるものが、911事件、サブプライム危機のいずれであるにせよ、21世紀の幕開けはアジアの黄金時代の幕開けだったと将来きっと言われているはずです」(陳氏)
そのなかで彼女が希望を託すのは、「戦略的互恵関係」よろしく、日本と中国がよりビジネスでの提携、合作関係を密にしていくことである。一時的な摩擦、不穏な関係は過去のもの、「お互いが組むことで大きなメリットを発揮できるはず」(陳氏)と確信する。
かつてハリウッド映画に憧れ、アメリカに生きようとした上海女性はいま、中日の、いやアジアの「架け橋」役を演じつつ、東奔西走の日々を送っている。
「リースだけで事業を終わらせたくない」――それが陳氏の口癖だ。彼女が目指すのは「金融機能を持った商社」。サプライヤー、エンドユーザ双方に自社の存在感を示しつつ、「リースを切り口に日本ブランド商品を中国のユーザーに販売していくこと」(陳氏)に注力したいという。
「中国でモノを販売したいがルートがない、売上げ回収が不安で手がつけられないという日本のメーカーがある一方、高品質のジャパン・プロダクトを望む中国ユーザーも存在する。そこに中国での与信ビジネスの発展空間があり、両者の橋渡し役として当社の存在意義があるのです」と陳氏は語る。
彼女のねらいはじつはこの先にもある。彼女のNISグループでの肩書きは「東アジア担当」だ。NISグループはベトナム、ホーチミンにすでに事務所を開設、ビジネスフィールドはアジア全体へと広がりをもちつつある。今後は「走出去」戦略をとる中国企業のバックアップ役にも積極的に買って出ることになるだろう。
「これからはアジアの黄金時代です」と陳氏は力をこめる。
「欧米主流の国際社会のターニングポイントとなるものが、911事件、サブプライム危機のいずれであるにせよ、21世紀の幕開けはアジアの黄金時代の幕開けだったと将来きっと言われているはずです」(陳氏)
そのなかで彼女が希望を託すのは、「戦略的互恵関係」よろしく、日本と中国がよりビジネスでの提携、合作関係を密にしていくことである。一時的な摩擦、不穏な関係は過去のもの、「お互いが組むことで大きなメリットを発揮できるはず」(陳氏)と確信する。
かつてハリウッド映画に憧れ、アメリカに生きようとした上海女性はいま、中日の、いやアジアの「架け橋」役を演じつつ、東奔西走の日々を送っている。
情報提供:
Whenever CHINA 08年2月号
Whenever CHINA 08年2月号2008/02/26 更新
陳雲薇 氏
日新租賃(中国)有限公司 董事長総経理
日新租賃(中国)有限公司 (Nissin Leasing (China) Co.,Ltd.)
[住所] 上海市淮海中路93号大上海時代広場1607-1610室
[電話] 021-6391-0222 / [FAX] 021-6391-8145
[住所] 上海市雁蕩路29号金雁坊3階
[電話] 021-6135-5388 / [FAX] 021-6135-5380
[URL] http://www.nissin-sh.com
日新租賃(中国)有限公司 董事長総経理
日新租賃(中国)有限公司董事長総経理。NIS グループ株式会社専務取締役兼執行役員東アジア担当。1989年、対外貿易学院卒業後、物流会社勤務を経て1992年日本に渡航する。98年上智大学経済学部経済学科を卒業後、株式会社ニッシン(現NIS グループ)に入社、IR部長等を経て03年、東証一部上場企業としては初めての外国籍取締役となる。04年上海に復帰、現地法人の経営トップとして手腕を振るう。中日双方のファイナンス事情に精通、上海市リース業協会の常務副会長でもある。
日新租賃(中国)有限公司 (Nissin Leasing (China) Co.,Ltd.)
[住所] 上海市淮海中路93号大上海時代広場1607-1610室
[電話] 021-6391-0222 / [FAX] 021-6391-8145
[住所] 上海市雁蕩路29号金雁坊3階
[電話] 021-6135-5388 / [FAX] 021-6135-5380
[URL] http://www.nissin-sh.com
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