巻頭インタビュー
『中日之橋』は天命、そして天職

呉四海氏はテレビ番組『中日之橋』のプロデューサー、そして司会として知られる上海きっての知日派だ。日本、中国両国のさらなる発展を期し、中国と日本の"架け橋"となることを自らの"天命"とする呉氏は、両国関係のさらなる発展を期し、"天職"である『中日之橋』の制作に今後も挑み続ける。
父から受けた薫陶
「晩熟」「遅咲き」を自認する呉四海氏。いまでは180センチを超える長躯に恵まれているものの少年時代はクラスで一番背が低かったという。
父とともに少年期の一時期を地方の農村で過ごした呉氏を夢中にさせたもの、それは卓球だった。明けても暮れても卓球に耽る毎日。彼にとって、卓球は世界そのものだった。さすがに高校時代は勉強に専念、教育を重んじる父親の意向に素直に従うが、復旦大学に進学するや、特訓を再開した。その成果は……在上海の大学生杯の卓球種目で優勝。幼少からの"卓球マニア"としての存在感を誇示したかたちとなった。
さて、"世界"を意味する「四海」という名前、これは呉氏の正真正銘の本名だ。父は、復旦大学で生物学部と法律学部の教授を歴任したいわば"知識分子"である。そして呉氏の上には3人の姉がいる。長女は歌・ダンスを得意とし、次女はスポーツに秀で、三女は幼い頃から才女と呼ばれ飛び級進学まで果たすなど、皆が個性豊かな存在だ。四人目の末っ子というだけなのか、それとも「世界の架け橋たる人物に育て」という父の期待を一身に背負ったのか、どちらにせよ「四海」という名を得た呉氏。ユニークな家族から知らず知らずのうちに薫陶を得ていたに違いない。
「運もよかった」――呉氏が持ち出すのは、5歳の時に瀕死寸前となった思い出である。「シャボン玉を追いかけ、2階のバルコニーから庭に転げ落ちてしまったのです。幸いアスファルトではなかったので地面がクッションとなったようです」(呉氏)
「一度は失った命」――そんな開き直りが少年時代の呉氏に芽生えたのかどうかは分からない。しかし持ち前の気丈さ、タフで楽観的な性格はその後の呉氏の発展を支える生涯の"財産"となっていったといえる。
父から受けた薫陶
「晩熟」「遅咲き」を自認する呉四海氏。いまでは180センチを超える長躯に恵まれているものの少年時代はクラスで一番背が低かったという。
父とともに少年期の一時期を地方の農村で過ごした呉氏を夢中にさせたもの、それは卓球だった。明けても暮れても卓球に耽る毎日。彼にとって、卓球は世界そのものだった。さすがに高校時代は勉強に専念、教育を重んじる父親の意向に素直に従うが、復旦大学に進学するや、特訓を再開した。その成果は……在上海の大学生杯の卓球種目で優勝。幼少からの"卓球マニア"としての存在感を誇示したかたちとなった。
さて、"世界"を意味する「四海」という名前、これは呉氏の正真正銘の本名だ。父は、復旦大学で生物学部と法律学部の教授を歴任したいわば"知識分子"である。そして呉氏の上には3人の姉がいる。長女は歌・ダンスを得意とし、次女はスポーツに秀で、三女は幼い頃から才女と呼ばれ飛び級進学まで果たすなど、皆が個性豊かな存在だ。四人目の末っ子というだけなのか、それとも「世界の架け橋たる人物に育て」という父の期待を一身に背負ったのか、どちらにせよ「四海」という名を得た呉氏。ユニークな家族から知らず知らずのうちに薫陶を得ていたに違いない。
「運もよかった」――呉氏が持ち出すのは、5歳の時に瀕死寸前となった思い出である。「シャボン玉を追いかけ、2階のバルコニーから庭に転げ落ちてしまったのです。幸いアスファルトではなかったので地面がクッションとなったようです」(呉氏)
「一度は失った命」――そんな開き直りが少年時代の呉氏に芽生えたのかどうかは分からない。しかし持ち前の気丈さ、タフで楽観的な性格はその後の呉氏の発展を支える生涯の"財産"となっていったといえる。

"アジアの神秘"日本との縁
呉氏の日本との縁、それは当時手にしたサンヨー製のテープレコーダーへの興味から始まった。
中国とは一衣帯水にある日本。不断に自分たちの国の文化を吸収していった日本。アジアで唯一の先進国にのしあがった日本。そして、この精緻な製品をつくる日本人という民族……。日本、そして日本人に対する興味がふつふつと湧き上がっていったという。
英語が得意でなく、"消去法"で日本語専攻という道が残ったというのも本音としてあるだろう。それでも、大学受験では迷わず日本語学科へと進学を決めたのだった。
時は改革開放間もない1980年。大学入試(高考)が復活してまだ3年目、大学生が外国人と接触する機会には制限が加えられていた時代だった。日本語習得には、授業とカセットレコーダーのテープのみが頼りだった。
改革開放後初の"リクルート学生"
大学時代の成績は良かった。4年間を通じてクラス長も務め、学生会にも参加した。なによりも卓球の大学生チャンピオン(上海)を勝ち取ったことが彼の自信を支えたという。
そして、キャンパスライフを終え、実社会に出ようとする際、呉氏は再びユニークさを発揮する。
当時、大学卒業後の就職先は、国、地方政府、労働部門および学校管理側によって"配分"されるのが通常だった。いわゆる「統一分配」という制度である。そのなかで呉氏は自ら上海テレビの門をたたくという"強攻策"に出た。前代未聞の"リクルート学生"の訪問に上海テレビ側も驚きを隠せなかったことだろう。なぜなら就職活動という概念さえまだ存在していない時代だったのだから。
一九八四年に上海テレビに入社した呉氏を待っていたのは、日本との"絆"を深める大きなチャンスだった。
大阪読売テレビのアナウンサーが上海テレビまで語学研修に出向いてくるなど、両局の合作が盛んになっていた1985年、大阪読売テレビの社長が上海を訪問する。そのときの通訳を任されたのが呉氏だ。彼の語学力と人柄を高く買った同社長との交流はいまでも続いているという。
そして、当時の上海テレビの社長・龚学平氏の強い勧めで呉氏は日本留学を決意する。1988年、日本経済は最盛期、バブルを謳歌していた。
自ら演出・司会を務めた『中日之橋』
大阪関西学院大学社会学部の博士課程を終えた呉氏を待っていたのは、半世紀の眠りから覚め、経済のテイクオフを始めた国際都市・上海の姿だった。
上海テレビとしてもその"国際化"の潮流に応えるべく、新たな番組編成の可能性を模索していた。しかし、準備不足でスタートした英語番組の出来はいまひとつ。もっと新機軸を打ち出せないか――そんな経営層の忸怩たる思いと期待を受け、呉氏に活躍の舞台が回ってきたのである。
96年春から企画に取り掛かった呉氏。上海に住む日本人に対して中国の情報を日本語で伝えるというコンセプトで番組ができないかと考えた。そして、中日間で活躍する日本人・中国人のインタビューや、上海を中心としたニュースのエッセンスを30分という時間に集約、『中日之橋』が鳴り物入りでスタートした。同年9月20日のことだった。
ひとたび放映が開始されると、日本文化に関心を持つ中国人からも注目を受けることになった。日本を理解するための窓の役割を果たしていたからである。『中日之橋』に引き続いて放映された『星の金貨』など人気トレンディードラマも大いに評判となった。日本語ドラマを吹き替えに頼らず放送するのは中国で初めての試みだった。
ちなみに自ら制作を手がけ、自らも司会を務めた呉氏は、番組のテーマソング『日曜の夜』も自ら作詞し自ら歌った。
8年目の転機
03年、『中日之橋』はすでに長寿番組となっていた。しかし、「倦怠期」というべきか、呉氏は大きな壁にぶつかっていた。この年は中国と日本、外交面でも齟齬が目立ち始めていた年だった。職場で受けるプレッシャーも次第に大きくなる。30分の番組を15分に縮小しながらやり過ごしてみたものの内面の葛藤は続く。
「日本、中国両国の"架け橋"を担うことに自信が少し揺らいでいた」――呉氏はその頃の心境をこのように振り返っている。
「もう一度自分を磨きたい」――そう経営層に申し出るや、呉氏はロンドンへと旅立った。在英中国大使館に勤める大学の同窓生の誘いも心の支えにあった。入社20年目。前例のない"リフレッシュ休暇"を取得しての留学であった。
さて、英語力を磨きつつ、呉氏が研究テーマとしたのは日本、中国、イギリスにおける番組編成の比較研究であった。
「番組編成の違いで国民性の違いも分かるんですよ」と呉氏。イギリスでゴールデンタイムに放映される番組はガーデニングやインテリアなど実用番組が主だった。「日本人がファンタジーを好むのに対して、イギリス人は非常に現実的なのです」(呉氏)
また、1日に20回も天気予報を報じるイギリスのテレビからは、「大雑把な」中国とは対照的な、きめ細かいイギリス人の国民性が読み取れるのだという。
呉氏の日本との縁、それは当時手にしたサンヨー製のテープレコーダーへの興味から始まった。
中国とは一衣帯水にある日本。不断に自分たちの国の文化を吸収していった日本。アジアで唯一の先進国にのしあがった日本。そして、この精緻な製品をつくる日本人という民族……。日本、そして日本人に対する興味がふつふつと湧き上がっていったという。
英語が得意でなく、"消去法"で日本語専攻という道が残ったというのも本音としてあるだろう。それでも、大学受験では迷わず日本語学科へと進学を決めたのだった。
時は改革開放間もない1980年。大学入試(高考)が復活してまだ3年目、大学生が外国人と接触する機会には制限が加えられていた時代だった。日本語習得には、授業とカセットレコーダーのテープのみが頼りだった。
改革開放後初の"リクルート学生"
大学時代の成績は良かった。4年間を通じてクラス長も務め、学生会にも参加した。なによりも卓球の大学生チャンピオン(上海)を勝ち取ったことが彼の自信を支えたという。
そして、キャンパスライフを終え、実社会に出ようとする際、呉氏は再びユニークさを発揮する。
当時、大学卒業後の就職先は、国、地方政府、労働部門および学校管理側によって"配分"されるのが通常だった。いわゆる「統一分配」という制度である。そのなかで呉氏は自ら上海テレビの門をたたくという"強攻策"に出た。前代未聞の"リクルート学生"の訪問に上海テレビ側も驚きを隠せなかったことだろう。なぜなら就職活動という概念さえまだ存在していない時代だったのだから。
一九八四年に上海テレビに入社した呉氏を待っていたのは、日本との"絆"を深める大きなチャンスだった。
大阪読売テレビのアナウンサーが上海テレビまで語学研修に出向いてくるなど、両局の合作が盛んになっていた1985年、大阪読売テレビの社長が上海を訪問する。そのときの通訳を任されたのが呉氏だ。彼の語学力と人柄を高く買った同社長との交流はいまでも続いているという。
そして、当時の上海テレビの社長・龚学平氏の強い勧めで呉氏は日本留学を決意する。1988年、日本経済は最盛期、バブルを謳歌していた。
自ら演出・司会を務めた『中日之橋』
大阪関西学院大学社会学部の博士課程を終えた呉氏を待っていたのは、半世紀の眠りから覚め、経済のテイクオフを始めた国際都市・上海の姿だった。
上海テレビとしてもその"国際化"の潮流に応えるべく、新たな番組編成の可能性を模索していた。しかし、準備不足でスタートした英語番組の出来はいまひとつ。もっと新機軸を打ち出せないか――そんな経営層の忸怩たる思いと期待を受け、呉氏に活躍の舞台が回ってきたのである。
96年春から企画に取り掛かった呉氏。上海に住む日本人に対して中国の情報を日本語で伝えるというコンセプトで番組ができないかと考えた。そして、中日間で活躍する日本人・中国人のインタビューや、上海を中心としたニュースのエッセンスを30分という時間に集約、『中日之橋』が鳴り物入りでスタートした。同年9月20日のことだった。
ひとたび放映が開始されると、日本文化に関心を持つ中国人からも注目を受けることになった。日本を理解するための窓の役割を果たしていたからである。『中日之橋』に引き続いて放映された『星の金貨』など人気トレンディードラマも大いに評判となった。日本語ドラマを吹き替えに頼らず放送するのは中国で初めての試みだった。
ちなみに自ら制作を手がけ、自らも司会を務めた呉氏は、番組のテーマソング『日曜の夜』も自ら作詞し自ら歌った。
8年目の転機
03年、『中日之橋』はすでに長寿番組となっていた。しかし、「倦怠期」というべきか、呉氏は大きな壁にぶつかっていた。この年は中国と日本、外交面でも齟齬が目立ち始めていた年だった。職場で受けるプレッシャーも次第に大きくなる。30分の番組を15分に縮小しながらやり過ごしてみたものの内面の葛藤は続く。
「日本、中国両国の"架け橋"を担うことに自信が少し揺らいでいた」――呉氏はその頃の心境をこのように振り返っている。
「もう一度自分を磨きたい」――そう経営層に申し出るや、呉氏はロンドンへと旅立った。在英中国大使館に勤める大学の同窓生の誘いも心の支えにあった。入社20年目。前例のない"リフレッシュ休暇"を取得しての留学であった。
さて、英語力を磨きつつ、呉氏が研究テーマとしたのは日本、中国、イギリスにおける番組編成の比較研究であった。
「番組編成の違いで国民性の違いも分かるんですよ」と呉氏。イギリスでゴールデンタイムに放映される番組はガーデニングやインテリアなど実用番組が主だった。「日本人がファンタジーを好むのに対して、イギリス人は非常に現実的なのです」(呉氏)
また、1日に20回も天気予報を報じるイギリスのテレビからは、「大雑把な」中国とは対照的な、きめ細かいイギリス人の国民性が読み取れるのだという。

「中日之橋」の撮影風景
日本語を武器に世界を広げる
イギリス滞在中にちょっとした"武勇談"がある。日本語が分かると得意満面となっていた教師の前で、呉氏は平家物語や方丈記の暗誦を披露したというのである。
「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色…」「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは …」。日本語を操る奇妙な中国人がいる――教室が騒然となったのは無理もない。
「ロンドンに留学して良かったのは日本以外のさまざまな世界を知ることができたことです。アフリカや南アメリカの国々の仲間もできました。そして日本語が自分にとって大きな武器となり、留学生活を有意義なものにしてくれました」
ヨーロッパ各国を回り、様々な国の人と知り合い、語り合うなかで、これまで自身が抱いていた偏狭な思考、先入観から来る偏見から解放されることができたのだという。
「ただ、食事には苦労しましたね。多くのイギリス人は、テレビに映るサッカー番組には夢中になっても、食卓の上にはあまり関心を見せないのです。妻に手作りの料理を調達してもらったこともあります」(呉氏)
自信回復、そして番組の再開
すっかり充電を果たし、職場へのカムバックした呉氏。しかし彼を迎えたのは厳しい現実だった。
『中日之橋』を復活させるかどうか――渡航前よりもさらに冷え切った外交関係を背景に、番組の再開に対してネガティブな意見が局内で多数を占めていたのだ。
しかし、呉氏には自信があった。「こんな時期だからこそ、中国人と日本人がもっとお互いを知り合うための番組を提供することに意義がある。平和を愛する日本人と中国人の橋梁役を果たそうではありませんか――」。番組編成会議で呉氏はそう自らの信念をぶつけたのだった。
彼の主張はかない、番組は再開した。いびつな関係を続けていた日本、中国両国の関係も、安倍晋三前首相の訪中、温家宝首相の訪日で急速に雪解けに向かった。そして今年、『中日文化・スポーツ交流年』と称し、さまざまなイベントが中日合作で催されることとなった。
今秋には梅屋庄吉と孫文の友情を描いた話劇が公演され、国際芸術祭では中日共同制作バレエ(元中国駐在日本国大使・中江要介氏が脚本を担当)が催されるなど"蜜月"にあるといっても過言ではない。
イギリス滞在中にちょっとした"武勇談"がある。日本語が分かると得意満面となっていた教師の前で、呉氏は平家物語や方丈記の暗誦を披露したというのである。
「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色…」「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは …」。日本語を操る奇妙な中国人がいる――教室が騒然となったのは無理もない。
「ロンドンに留学して良かったのは日本以外のさまざまな世界を知ることができたことです。アフリカや南アメリカの国々の仲間もできました。そして日本語が自分にとって大きな武器となり、留学生活を有意義なものにしてくれました」
ヨーロッパ各国を回り、様々な国の人と知り合い、語り合うなかで、これまで自身が抱いていた偏狭な思考、先入観から来る偏見から解放されることができたのだという。
「ただ、食事には苦労しましたね。多くのイギリス人は、テレビに映るサッカー番組には夢中になっても、食卓の上にはあまり関心を見せないのです。妻に手作りの料理を調達してもらったこともあります」(呉氏)
自信回復、そして番組の再開
すっかり充電を果たし、職場へのカムバックした呉氏。しかし彼を迎えたのは厳しい現実だった。
『中日之橋』を復活させるかどうか――渡航前よりもさらに冷え切った外交関係を背景に、番組の再開に対してネガティブな意見が局内で多数を占めていたのだ。
しかし、呉氏には自信があった。「こんな時期だからこそ、中国人と日本人がもっとお互いを知り合うための番組を提供することに意義がある。平和を愛する日本人と中国人の橋梁役を果たそうではありませんか――」。番組編成会議で呉氏はそう自らの信念をぶつけたのだった。
彼の主張はかない、番組は再開した。いびつな関係を続けていた日本、中国両国の関係も、安倍晋三前首相の訪中、温家宝首相の訪日で急速に雪解けに向かった。そして今年、『中日文化・スポーツ交流年』と称し、さまざまなイベントが中日合作で催されることとなった。
今秋には梅屋庄吉と孫文の友情を描いた話劇が公演され、国際芸術祭では中日共同制作バレエ(元中国駐在日本国大使・中江要介氏が脚本を担当)が催されるなど"蜜月"にあるといっても過言ではない。
情報提供:
Whenever CHINA 07年12月号
Whenever CHINA 07年12月号2007/12/11 更新
呉四海 氏
『中日之橋』プロデューサー
2008年1月6日(日)より上海国際TVチャンネルスタート
パワーアップした「中日の橋」が日本の情報をお届けします!
リニューアル「中国の橋」構成
(1)話題の人物、トピック
(2)上海に住む日本人の暮らしの紹介
(3)グルメ上海
(4)日本の観光地紹介
(5)中日サロン(映画、演劇などのご紹介)
≪毎週日曜日 午後9時半のゴールデンタイム≫
『中日之橋』プロデューサー
1962年生まれ、上海出身。「下放」政策の影響で少年期の一時期を地方の農村で過ごす。復旦大学日本語学部卒業後、84年に上海テレビ(現在のSMG:上海文広新聞伝媒集団)に入社。その後、日本留学の機会を経て関西学院大学社会学部の博士課程を専攻する。上海に復帰したのは96年。『中日之橋』の制作に着手、同年より放映がスタート。03年にイギリス留学のために休職、いったんは放送が中断されるが、04 年に再開する。なお、『中日之橋』は、08年1月に上海国際チャンネルの目玉番組として番組枠の拡大を予定している。
2008年1月6日(日)より上海国際TVチャンネルスタート
パワーアップした「中日の橋」が日本の情報をお届けします!
上海きっての知日派プロデューサー・呉四海氏の司会でお届けする日本語情報番組「中日の橋」(現・東方衛星テレビ)が08年1月、新しく生まれ変わります。
新設される国際チャンネルに舞台を移し番組枠延長でパワーアップ!中日間で活躍する日本人・中国人のインタビューや、上海を中心とした最新ニュース、グルメや観光・イベント情報などなど中日両国に関連する情報が盛りだくさん。語学学習者にとっても有難い中国語字幕スーパー付きでの放送です。
新設される国際チャンネルに舞台を移し番組枠延長でパワーアップ!中日間で活躍する日本人・中国人のインタビューや、上海を中心とした最新ニュース、グルメや観光・イベント情報などなど中日両国に関連する情報が盛りだくさん。語学学習者にとっても有難い中国語字幕スーパー付きでの放送です。
リニューアル「中国の橋」構成
(1)話題の人物、トピック
(2)上海に住む日本人の暮らしの紹介
(3)グルメ上海
(4)日本の観光地紹介
(5)中日サロン(映画、演劇などのご紹介)
≪毎週日曜日 午後9時半のゴールデンタイム≫
| 午後9時半〜午後10時 | 「中日の橋」リニューアル版 |
| 午後10時半〜午後11時 | 日本語ドラマ「女系家族」(米倉涼子主演) |
| 午後11時半〜午後11時半 | 日本音楽番組「音楽物語」 |
| 午後11時半〜深夜12時 | 英語 スポーツ番組 |
巻頭インタビュー 一覧
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